チェンライの日々

タイ(チェンライ)に住んで15年。日々の暮らしを綴ります。

人生の分かれ目

人生の分かれ目って在るものだなと、この歳に成ってつくづく思う事が在る。
人生には幾つもの分かれ目が在った。
まず、最初の分かれ目。
いや、最初の分かれ目は余りハッキリしないとも言える。
高校生に成ってバレー部に入った事。
偶々入った。
それが後の人生に大きく関わったとは思えるが、
それは違う選択の経験が無いので実際のところ何とも言えない。
少なくとも中学生まではひ弱な生徒だったので、
その点では、多分人生が大きく変わった様な気がする。
全くのスポーツマンに成った。
そしてそれは多分良かったのだろう。
若しESSに入ったままだったら、別の意味で良い人生と成ったかも知れない。
今思い返せば、テニス位が適当で楽だったかも。
それなら心臓肥大に成る事も無く、余り凝り性に成らなかったかも。
いや、凝り性の性格は私の生まれ付きのものだったのかも。
唯、テニスをやって居る人を見て来た限りでは、
皆C調で適当な人が多かった。
その次の分かれ目は大学受験。
バレーを一生懸命やる羽目に成って、受験勉強が疎かに成った。
一浪で合格しなかった時、島津の義兄がレントゲン学校を勧めたので、
もう少しで行くところだった。
京大に進んだ従兄が絶対にダメだと母を説得して、二浪する事に成った。
結局、京大にも行けずに同志社に行く事に成った。
元々無理な話だった。
別に立命でも良かったのだが、同志社も受かったので同志社へ。
学生時代はC調に生きた。
次の分かれ目が大きかった。
京都府の上級試験に合格して、てっきり花形だと思って居たら、
何と高校の事務員だと。
詐欺だと思った。
詐欺だと言って辞めた人も居る。
合格後、障害児教育に興味は無いかと人事課から訊かれ、
そんな馬鹿なと思ったから、少なくとも普通科にしてくれと言った。
それが間違いだった。
当時の高校は蜷川民主府政と言いながら、
旧態依然として、まるで牢獄だった。
封建的な職場。
一方、教員は共産党が強く、私は事務員だったが教員とは話が合った。
何しろ私は上級だと言う意識が強かった。
競争率30倍の難関を突破して、同志社からは2人しか通らなかった。
それが大きな間違い。
盲学校で気楽に過ごせば良かった。
同期に盲学校の事務員に成った者が居た。
どうして私は障害児教育は嫌だと言ったのだろう。
そして縁談が有った。
音楽の教師で「君が代」を教えると言って居た。
こりゃダメだと思った。
今思えば私の左巻きが災いした。
その人と結婚して居れば今頃は…。
間違い無くタイには住んで居無い。


今日はこれまで。


先日買った納豆


今日の朝食(大根下ろし納豆)


3時のおやつ


さて、今夜は朝食メニュー。
いつも美味しい料理をありがとう。



今日はこんなYOUTUBEを見て居た。



日本人女性がタイの国境の山奥の密林で20年かけて山を開拓し手作りした村に訪れてみた

目に良い食べ物バナナ!?眼科医が毎日食べています!