チェンライの日々

タイ(チェンライ)に住んで16年。日々の暮らしを綴ります。

家族の事(その2)(自叙伝補足)

(昨日のつづき)


父は警察官だったので軍隊では憲兵に成った。
少し徴集が遅かったので年を取って居て辛かったそうだ。
唯、頑張ったので2階級特進で上等兵に。
心臓が悪いので兵役で無理をしたのだろう。
南方のジャングルの水中の行進で傷めたのだろうと思って居たが、満州だった。
引き揚げの時は憲兵は真っ先に狙われるのだが、父は中国人に優しかったので逃がしてくれたと。
それで皆を引き揚げさせてから自分も舞鶴に戻ったと。
戦後は保険の代理店に勤めた。
京都支店で部長に成ってからは組合交渉も担当したと。
組合からは一目置かれたらしい。
筋を通して頑固だったと。
民社党支持だった。
私は子供心に「何だ」と思って居た。
私は社会党支持だった様に思う。
母は父に従順だった。
母は尋常小学校の時は優等生で、中学校に上がって先生から「2番で我慢しなさい」と言われたと。
「1番は金持ちに譲りなさい」と言われたらしい。
ソフトボールもピッチャーだったと。
それで肩を傷めた。
一生傷に成った。
右腕が上がらなかった。
母は再婚で前夫は病気で1年で死んだらしい。
父も再婚で兄や姉とは腹違い。
でも私は父が亡くなるまで知らなかった。
仏壇の過去帳を見て母に尋ねて分かった。
でも今でも兄や姉は実の兄弟の様に思って居る。
子供の時に兄弟だと思って過ごしたら其れは兄弟なのだ。
上の姉にも兄と同じ様に歌声喫茶によく連れて行って貰った。
下の姉は年が一番近かったのでよく喧嘩した。
皆結婚して家を出て行ったので祖母が亡くなると3人暮らしに成った。
そして父も祖母の後を追う様に亡くなったので、高3からは母と2人暮らし。
父の遺産で安アパートを買って、その賃料で私は育てられた。
そしてバブルの時に1億で売れた。
唯、所得税は4千万だった。
家の敷地は隣の社長が地主から内緒で買って居て、やがて我々に出て行く様に嫌がらせを言う様に成って居た。
そんな中、母が京都の長者番付に載ったので社長はびっくりして飛んで来たそうだ。
でも結局家を売る事にした。
結婚して近所のアパートで暮らして居たが、母を1人にして置けないと思った。
妻が子宮がんで母国で治療中、母が近所に新築物件の広告を見つけた。
妻が戻り、其処で10年暮らしてタイに来た。


(つづく)



今日も朝食後、気だるくて中々起きられ無かった。
唯、何時までもグダグタ寝て居ても良く無いと思い、思い切って喫茶店に行く事にした。
今日も何時もの喫茶店がお休みなので少し遠くのGREEN HOUSEに。
昨日と同じブルーベリー・ホーラパー(バジル)スムージー。
それを飲んで少し目が覚めた。
今日は他に客も来て居た。
今日もブログを打ちながら緩やかな午後が過ぎた。



今日の朝食。


さて、今夜はトマト・スパゲティー。いと旨し。
いつも美味しい料理をありがとう。