大学時代(自叙伝補足)
(昨日のつづき)
そう言えば今まで随分と本を捨てて来た。
受験参考書の赤尾好夫の英語の綜合的研究、矢野健太郎の難問解法のテクニック。
今では何の役にも立たないがもう一度見てみたい。
予備校の世界史の教科書が分厚くて、余計に成績が悪く成ったのだが、
今読めば教養が身に付く良い本かも知れない。
それらは絶版に成ってるが、高校の教科書だけは退職する頃に再び買った。
レコードも一度引っ越した時に捨ててしまった。
レコードなどもう聴かないと思ったのだろうか。
今はまたブームに成って居る。
それでもCDやMD、カセットテープは何100枚とタイに持って来た。
書籍も全て持って来た。
哲学書や仏教、心理学など100冊以上有る。
古くは「バラモン経典・原始仏典」「大乗仏典」「孔子・孟子」「老子・荘子」「プラトン」。
新しくは「反デューリング論」「自然の弁証法」「唯物論と経験批判論」「古代社会」。
新しくは無いか(笑)。
愛読書は道元の「正法眼蔵」とアンナ・フロイトの「自我と防衛」。
大学時代は「如何に生きるか」が最大の関心事だった。
その際「善く生きる」が私にとって重要な基準だった。
心理学的には愛他主義の性格だった。
そして「善とは何か」「人間とは何か」が次の命題と成った。
高校の「倫社・政経」の教科書にそれらしき事が書かれて居たので、哲学書を読みあさった。
そして本屋で哲学以外にも目が行き、関心が広がって行った。
古本屋巡りもした。
しかし、「善とは何か」については中々核心を得られる本は無かった。
そんな中で柳田謙十郎の「倫理学」を立ち読みして、この本に書いて無ければ読書を辞めようと思った。
家に帰って読んで見たが、周辺の事は書いて有るが知りたい事は書いて無かった。
結局、本からは得られないと思い実践活動に飛び込んだ。
当時、寺山修二の「書を捨てよ、町に出よう」と言う言葉が胸に刺さった。
其処で民青に入った。
心理学で得た事が一つ有る。
「良心は親による禁止から生まれる。」
実は悩んで居る事が一つ有る。
マルクスやエンゲルスの本を読んで共産主義に傾倒したが、近年、疑問が生じて居る。
GHQの教育政策によって、自虐史観に染まって居るのではと。
唯、小学生の時の悪童達が自民党の選挙事務所に詰めて居る一方、私の回りの共産党員達は優秀な人達だった。
そして民主集中制や派閥禁止にも疑問が有る。
中央委員が幹部会委員を選び党首を選ぶのだが、其処には選挙と言う名の押し付けしか無い。
派閥を禁止すれば個人対党の関係に成り、党が絶対的な権力を持つ。
下級機関は上級機関に逆らえないからだ。
自由にものが言える仲間が集まり、それが小派閥、大派閥と成って初めて対等に主張出来る。
共産党はボトムアップと言いながら基本は上意下達。
専従組織の弊害だろう。
いや、何処の会社でも組織である以上は同じだろう。
専従員は上の命に従わなければオマンマの食いあげ。
専従組織無くして大きな党が成り立たないとしたら、それは両刃の刃。
年中、突撃ラッパで、年中「今こそ」は国語的にオカシイと思ったが、専従員は国語力が無い。
上の方も地位が約束されれば人間的に弱く成る。
その地位を守ろうとする。
いつでも平の党員に戻る覚悟が必要。
いや反論すれば圧力が掛る。
これも会社組織なら同じかも知れない。
唯、派閥の禁止については共産党は徹底して居る。
病的なまでに。
精神を病むほどに。
自虐史観については多くの国民が陥ってるので此処で説明は難しい。
父が「我々は追い込まれて戦争したんだ」と話したので、子供心に変だと思った。
既に子供心に自虐史観が植え付けられて居たのだ。
昭和30年代だったと思う。
石油を止められたから軍国主義に走ったのだと。
いや、石油が無いなら無いで、生きて行く道が在ったのかも。
(つづく)
今日も良い1日だったが、結構暑かった。
クーラーを掛けてゴロゴロして居ても良いのだが、冷房の効いて居る喫茶店に行こうと思った。
やはり着くとシャンとしてブログを書く気に成った。
今朝はどう言う訳か手作りのシューマイ。
タイ味のシューマイは初めて食べた。
朝がご馳走だったので夜は質素に。
いつも美味しい料理をありがとう。