チェンライの日々

タイ(チェンライ)に住んで15年。日々の暮らしを綴ります。

追記(その7)(自叙伝補足)ー母のことー

少し母の事を思い出した。
父の遺産で宇治に安アパートを買ったのだが、車を買うまでは毎月の集金に母をバイクの後ろに乗せて通った事も有る。
それから電車で通った事も。
何故か懐かしいあの頃。
最後の方は借家人も少なく成って居た。
2階建てで全8軒位の内1-2軒だった様に思う。
家賃は幾らだったか覚えて居ないが、それで家計が維持出来たのか。
母は保険の外交員もやった。
無口な母によく勤まるものだと思った。
内職もやった。
裏面にカドミウムが含まれてる様なカーボン紙を剥がしては懸命に重ね直して居た。
内職は色々やったが覚えて居ない。
そうだ。下絵が書かれた布地に塗り絵の様な事もして居た。
最後にバブルでアパートが高く売れたが、兄や姉達に分配した。
兄には家を買い与えた。
その後、母が80の時に結婚し、母もやれやれと思った事だろう。
そして10年間3人で暮らした。
その頃が母は一番幸せだったろう。
謡曲を趣味にして居た。
そして渡タイし、7年後に亡くなった。
母を日本に残して行けなかった。
渡タイ後、腰を傷め、最後は車椅子から寝たきりに成った。
風邪をこじらせて肺炎に成り入院したが、集中治療室は薄着で冷房がキツく、強い薬は高齢者には使えないと言うので、医者は止めたが退院させた。
1週間後、亡くなる直前、目を瞑ったまま「ありがとう。楽しかった」と言った。
本当に認知症だったのかと驚いた。
夕食を済ませて母の部屋に行くと、息を引き取って居た。
口を開いたまま静かに事切れて居た。
最後に傍に居てやれなかったのが残念だが、今もその最後の言葉が心の慰みに成って居る。
無理やりタイに連れて来たからだ。


今も感謝して居る。
母の子で良かったと。



今日は車の修理中で妻の車で喫茶店に来た。
幸い屋根の有る駐車場は空いて居た。
外はもうすっかり真夏だ。



今夜は下ろし蕎麦。
いつも美味しい料理をありがとう。