チェンライの日々

タイ(チェンライ)に住んで16年。日々の暮らしを綴ります。

振り返り(自叙伝補足)


(昨日のつづき)


さて、急ぎ足で書いて見たが、思い出した事が他にも有る。
これから所々補足して行きたい。
時間は有り余るほど有る。


まず小学校4年位だったかソロバン教室に通った。
嫌だったが、あの独特な部屋の匂いは今思うと懐かしい。
3級に成っても暗算が苦手だった。
今から思うと習字教室に通わせて貰った方が良かった。
字がとても下手だ。
これでパソコンが普及しなかったら酷い人生だったろう。
字を書く事から逃げ回って居ただろう。
ブログを書いて皆に見て貰うなど飛んでも無い事だ。
デジダル社会は人間に冷たいと言うが、人間に優しいのでは…。
5年生から地元の有名な英会話教室に通った。
学校では学級委員もして頭は良かった方だが、其処では劣等生だった。
何しろ皆学級委員で他の有名な私立学校からも来て居た。
其処ではいつも劣等感を味わった。
唯、そのお陰で発音は今でも自信が有る。
通ったのは6年までだが、タイに来てアメリカ人に発音を褒められた。
小学校の時は何故か講堂の掃除を頑張った。
掃除大臣と言われた。
当番の日は真っ先に講堂に行って床を雑巾掛けする。
すると後ろに皆が続いて一斉に並んで端から始める。
並んですると拭き残しが出来ず効率が良いのだ。
そんな性格のせいか、担任に可愛がられて学級委員に成った。
学級委員は前期と後期で交代した。
もう1人の学級委員からは「人気取りか」と言われたが、へ~と思った。
彼がマセて居たのか私が晩熟だったのか。
一時期一緒に遊んだので、同窓会でも彼とは仲が良かった。
中学校では新聞部に入った。
部長をした女の子は凄く利発だったが、後年、同窓会の写真を見せて貰ったらちょっと変な人に見えたので、人間分からないものだと思った。
高校時代は練習に明け暮れて同じクラスで友達は出来なかったが、浪人したら何故か高校の同じクラスの人達と友達に成りよくサッカーをした。
でも大学に入ると散り散りに成った。
大学2年からはバレー同好会に入ったが、地元の和尚さんが何故か私を夏盆の運転手に雇ってくれて、車を使っても良いと言う事だったので、女子バレーのお気に入りの子とドライブした。
しかし晩熟だった私は長く続かず其れっ切りと成った。
一体私の学生時代は何だったんだろう。
義兄の車を大破してしまい、少しでも弁償しろと実兄に言われ、牛乳配達などをした。
実は私が免許取り立ての頃、義兄が高速道路でいきなり交代しろと言って運転したら横転した。
いや横転どころか逆さに成って止まった。
命が無いところだった。
それで色んなバイトをしたのだが、引っ越し手伝いとかアルサロのウェイターだとか。
実はアルサロのウェイターは雇って貰えなかった。
お坊ちゃんはダメと言う事だったんだろうか。
時給は良かったのだが…。
それでレストランのウェイターをしたが、流行り過ぎで耐えられず1日で辞めた。
岡崎に在る「テラス伊達」。
腕が棒に成った。
皿を手に持って、しかも関節にもう1枚乗せて3枚同時に運んだ。
これも時給は良かったのだが…。
後は夜の祇園の駐車場のバイト。
これは暇過ぎて耐えられ無かった。
工場のバイトには色んな人が居た。
要領をかます人。
教え子をかどわかした元教員。
その時も一緒に住んで居た。
何故か私も可愛がって貰った。
其処の人間模様は面白かった。
一番長く続いたのは牛乳配達。
折角、朝早く起きるので2人分回った。
元々朝は弱いので1人分700円の為に早く起きるのは馬鹿らしかった。
昼の配達もした。
小売店回りだ。
適当に卸して確認もしないし、私も一々覚えて無いのに一体勘定はどうしてたんだろう。
今でも覚えて居る「雪印ローリー」。
あの味が忘れられない。
好きなだけ飲めた。
今はもう無い。
金持ちの家だけゴールド牛乳。
1リットル瓶を3本届けた家も有る。
毎日だった様な。
軽トラでの配達だが、雨の日にバックでぶつけた事も有る。
そのバイトで運転技術が磨かれて行った。
冬はガラスが凍り付くので熱湯を掛けて貰うのだが、見えない時は窓から首を出して運転した。
そう言えば昼は学生食堂で食べた。
家が近いので必要性は無かったのだが…。
バレー同好会の時、バザーの準備で3日徹夜した事が有る。
銭湯の湯に浸かって居る時、眠ってブクブクと沈んだ。
毎日バイクで通ったが、雨の時はどうしたのだろう。
余り記憶が無い。
タイでは傘を差して運転する。
毎日図書館で好きな本を読んで過ごした。
もう一度タイムトラベルで戻りたい。


(つづく)


(市場)


今日も良い1日が終わった。
夕食後、満腹に成ってベッドにゴロン。
まだ、ブログアップの仕事が残って居た。


今日の朝食


さて、今夜は軍艦巻き。
いつも美味しい料理をありがとう。