チェンライの日々

タイ(チェンライ)に住んで15年。日々の暮らしを綴ります。

最終回(自叙伝補足)

昨夜は結構雨が降ったので、今日はクーラーを付けずともとても涼しかった。
でも喫茶店に行かないとシャンとしないので出掛けた。
珍しく屋根の駐車場がいっぱいに成って居た。
暫くすると客が出て行ったのでメロンスムージーを一息飲んで車を停め直した。



(昨日のつづき)


さて、自叙伝もいよいよ書く事が無く成って来たので小学校の恩師の事を書いて最後にしようと思う。
その名は長谷川良治先生。
(体育と国語が専門だと言って居た)
1年の音楽の先生が産休に成り、2年から担任して貰った。
担任は1年2年、3年4年と言う様に2年づつ続ける事に成って居た。
その頃、宿題などを忘れたら最初に先生の所に行ってモジモジ報告するのが日課に成って居た。
それが可愛かったのか、とりわけ私は可愛がられて肩車などして廊下を歩いて貰う様に成った。
他の子はエコ贔屓だと妬んで居た様だ。
5年に成ってまた担任に成った。
6年も。
その頃は講堂の掃除を率先してやったので、それが気に入られたのか、また他人より可愛がられた。
悪童には厳しく、軽い体罰などもされた。
その先生の標語は「正直・努力」。
同窓会の時も「正直・努力」の教えに感謝してると皆な先生に報告して居た。
悪童さえ感謝してると言って居た。
実は社会人に成って、或る同級生が自殺した。
子供の頃よく一緒に遊んだ仲だ。
その時、若し同窓生同士で励まし合って居たらと思い、私が同窓会を始めた。
その後、いつも先生を招いて同窓会をする様に成った。
そんな事が有ってか、或る時、先生は私に見合い話を持って来た。
小学校の音楽の教師だった。
その頃、私は赤にかぶれてたので、君が代を歌唱指導してるのかと問うと当然教えてると言うので、これはダメだと思い断った。
君が代の深い意味なぞ知る由も無く。

今から思うと少し後悔して居る。
それから何人も見合いしたが、その人が一番良かったかも知れない。
色んな人が骨を折ってくれた。
そして、私の結婚式に先生を招待した。
遠い神戸市垂水区から来てくれた。
その時の祝辞は今も心に残って居る。
「1人外国に来た彼女をしっかり抱き締めて上げなさい」と。
大学の恩師とは対称的だ。
彼は新島襄の言う良心を滔々と述べて居た。
その後、同窓会の幹事は別の者がやる様に成ったが、先生はいつも出席された。
そして私が渡タイ後、先生は他界された。
私の生涯に大きな影響を残された先生の事はずっと忘れないで居たい。


ところで蛇足だが、私は共産党の国会議員の娘との見合い話も持って来られた事が有る。
行き遅れのブスだと思って断ったが、いや、それ以上に鞄持ちにでも成ったら大変だと思った。
ところがブスだと思って居たのが飛んだ勘違いだったかも知れない。
いや、それにしても今の妻が一番良かった様に思う。
弁証法的に比較は出来ないが…。


(完)



今日の朝食


さて、今夜はマグロ缶詰。
いつも美味しい料理をありがとう。