チェンライの日々

タイ(チェンライ)に住んで15年。日々の暮らしを綴ります。

京都府に採用(自叙伝)

(昨日のつづき)


ところが採用の内示前に「障害児教育に興味は有りますか?」と電話が有った。
私はびっくりして「普通教育がいいです」と答えた。
すると勤務場所は高校の事務だった。
「これは詐欺だ!」と言って辞めた者も居た。
(現在、募集案内は学校事務は別に成って居る。)
私は辞める勇気など無かったので其のまま勤めた。
職場は縁故採用の人達で封建的だった。
息が詰まりそうだった。
5年耐えた。
教員は私が大卒のせいか可愛がってくれた。
メーデーの後の分厚いビフテキが今も懐かしい。
メーデーには事務所からは私を一から指導してくれた優しいお姉さんの共産党員と私だけ参加した。
(後年、女性党員がまた事務所に異動して来るのだが、私の指導係のお姉さんの私への指導の言動を聞いて、「貴方、何でそんな言い方するの!」と言った。
此処の事務所の厳しい雰囲気に優しいお姉さんも影響されてしまうのだ。
後で来た女性事務員は他の事務員から邪険にされて居た。)
封建的な事務所の人達は教員をバカにして居た。
当時は蜷川民主府政で、元府立高教組委員長が校長に成った。
私は文書受付と窓口担当だったが、或る時、在学証明のハンコを貰いに校長室にノックもせずに入ったら、彼は2中総(第2回中央委員会総会)のリーフを慌てて伏せた。
(何も慌てなくても良いのに、私はシンパだから…と思った。)
それから、何処で聞き付けたのか、バレーの顧問が私にコーチをしろと言って来た。
事務部長がOKしたので引き受けた。
(後年、生徒達は私のクラブに入る事に成る。私の所属して居た市民ルールクラブに。)
バレーのコーチは貴重な私の息抜きだった。
それと学校事務の同期会も作った。
20人ほど居た。(大卒が5人、高卒が15人ほど)
月1でレクリエーションをした。
それも貴重な気分転換だった。
5年辛抱の後、京都府教育委員会の出先機関の教育局に異動に成った。
封建的な職場から解放されて、天国の様に思われた。
小さな教育局だったので管轄地も少ない代わりに職員も少なかった。
それで市や町の教育委員会からの進達を本庁にするのだが、私1人で本庁の学校教育課全ての事務を仲立ちした。
しかも私の隣の職員が2度も産休の間は、本庁の保健体育課、社会教育課、文化財保護課を併せて4課の事務をした。
また市町教育委員会も私が相手をするのは長年同じ事務をして居るベテランで私より遥かに詳しかった。
勿論その間可愛いバイトは1人雇われたが、当然、稟議書は全て私が書いた。
そして毎日机上には決裁後の稟議書が山と積まれた。
(蛇足だがバイトは教員志望の採用待ちの子。決してセクハラはして居ない。だが夢中に成った。)
学校事務から2人異動して来たのだが、ジャンケンで組合役員を決めろと言われた。
ジャンケンに負けた私は職場の分会長(委員長)。
そしてもう1人は支部の執行委員に成った。
支部は同じ地方の他の府の出先機関(土木事務所・保健所・振興局など)で構成されて居た。
2年目は彼と交代して支部委員と成った。
文化スポーツ担当でスポーツはお手のものだった。
支部主催の職場対抗試合もしたが、京都府全体のスポーツ祭典(支部対抗)で弱小支部ながらいきなり3位に。
参加率の参加点で稼いだ。
その翌年も3位。
その翌々年も。
平の執行委員から書記次長に成って、毎週の駅頭ビラの配布も担当したので、仕事中に教育局の輪転機を回した。
指導主事達は何も言わなかったが、局長や次長に見つからないかとハラハラした。
勿論、書記局で印刷したらいいのだが、仕事が忙しいので5時までに別棟まで行って印刷する時間が無かった。
確か千枚位だったと思う。

何しろもう1人の書記次長が印刷原稿をくれるのが遅かった。
私の上司も隠れ共産党員だったので黙認してたのか、知らなかったのか、それは今と成っては知る由も無い。
(彼は後に向日市の教育長に成った。)
そう言えば何故私が共産党員に成ったのかと言えば、
管轄地域で「日本の平和と民主主義を守る乙訓懇談会」と言う革新懇話会が在り、
事務局に府職の役員として送り込まれ、事務局員だった長岡京市の共産党議員団長達に入党を勧められたからだ。
元々学生時代に民青に入って居たので、アレルギーは無かった。
当時、乙訓地域には著名な学者・文化人が多く住んで居た。
黒田元大阪府知事を講師に招いて「金大中事件」の講義なども行なわれ、「乙訓平民懇」の名は全国に轟いた。
事務的な雑事は私がした。
教組から派遣されたもう1人の事務局員はサボってばかりだった。
それで京都で平民懇の会議が在った時、乙訓の事務局長が出席しなかったので私が代理出席した。
すると其処には以前の職場の元校長(元府立高教組の委員長)が出席して居た。
(その時は京教祖の委員長に成って居た)
他に出席は「明るい民主府政をつくる会」の中野代表世話人、梅田勝共産党衆院議員、共産党京都府委員だった。
大変な会議に来てしまったとびっくりした。
元校長は「元気かい?」と。
彼もびっくりした事だろう。
話を仕事の話に戻すと、教科書を採択する際の教科書の展示室の教科書センターが別室に在り、昼休みは指導主事達と其処で卓球をした。
市町の教育委員会は体育指導員を市民から任命するが、指導員の講習会なども局が主催した。
彼らは町のスポーツ振興を担うのだが、私はスポーツマンでも在ったので現場の状況は想像が付いた。
因みに私は新日本体育連盟の京都バレーボール協議会の常任で、市民ルールのバレーボール大会も主催した。
一度全国大会を京都でやった事もある。
(後年、私は地元のママさんバレーのコーチもした。)
文化財保護では乙訓地方は長岡京跡も在り、掘れば遺構が噴出した。
お陰で訳の分からない図面の稟議書で机の上は直ぐ山と成った。
本庁の保健体育課給食係の学校視察に付いて行って、米飯給食の試食もした。
私の子供時代とは雲泥のご馳走だった。
市の栄養士さんとの見合いの話も在った。
理想が高過ぎて結ばれ無かった。
そこで瞬く間に5年が過ぎて、後ろ髪が引かれる思いで本庁に異動した。


(つづく)



追伸


今日も喫茶店の後、プールに行った。
今日もプールサイドの景色を眺めては幸せを感じたが、冷たい水に入るのが段々億劫に成って来た。
これが4月に成れば温く成って来るので、冷たさを味わうのは今の内なのだが、一旦冷えると中々温まらない。
プールサイドに上がっても全く暑く無い。
それはそれで良いのだが、いや寧ろ寒い位。
子供の頃は唇が青く成ると「上がりなさい」と言われたのだが…。
やはり年寄りの冷や水。
唯、水に浸かって居ると水の匂いが子供の頃の記憶を呼び覚ます。
何とも懐かしい過去の記憶。
そんな事を思いながら今日も過ぎた。



今日の朝食


さて、今夜は鶏の唐揚げ。
いつも美味しい料理をありがとう。