チェンライの日々

タイ(チェンライ)に住んで16年。日々の暮らしを綴ります。

残された人生をどう生きるか(3)


何だか左翼から保守へ自分が変わる言い訳を此処で書く事に成る様なので、それは本意では無い。
それは自分の中で結論を得れば良い話。
此処では単に自分の過去の変遷を書く事にしよう。


その前に一つだけ年寄りの自慢話をして置きたい。
今の共産党の衆議院の国対委員長の話。
以前、京都の北地区委員会で赤旗の仕分けをして居た時、当時、京都市会議員だった彼が北地区だった。
私の地元は左京区下鴨で、地元の集会で彼と会った。
弁士で来た彼は「何だ、此処が君の地元だったのか」と。
私は府庁の党委員会に属して居たので、彼は私の出身を知らなかった。
それ以降、北野天満宮の初詣街宣で彼が演説してる時、母と初詣に行けば彼と挨拶を交わす様に成った。
もう1人。
参議院の国対委員長の話。
私が職場の党会議の席に情勢の話の講師として京都市議を呼んだら、当時参議員だった彼を連れて来た。
何で来たのかと尋ねると、府庁党員の会議を一度見学して見たいと言う事だった。
へえ~、国会議員が一府庁党員の会議を参考にしたいのかと驚いた。
実際、大して参考には成らなかっただろう。
皆びっくりして恐縮してしまって何も話さなかった。
私も焦った。
彼の秘書には私もよく知ってる地区の青年部長が成った。


さて、自慢話にも成らないが、私が渡タイしたいと思った内の一つに退職後は党活動を辞めたいと思ったからだ。
退職後はゆっくりしたいと思った。
だが、中々抜けさせて貰えなかった。
1年の半分は日本に居ないと言ったのに…。
離党届は受理され無かったので、最後は一方的に脱退した。
党活動と言うものは自分の利益は一旦棚上げにしてと言うものだ。
私は現役時代に十分活動したと思って居た。
もう此れで十分だと思って居た。
そして渡タイしてゆとりが出来たと思ったら日本人会の役員に成って居た。
母が亡くなり、時間が出来て本やYOUTUBEを見る様に成って、段々と違う考えが芽生えて来た。
一つには党の哲学者だった古在由重も晩年離党したのが私には大きかった。
また昔、地域の集会で党の経済学者が隣に座ったので、共産主義に於ける市場経済の在り方は如何と聞いた時、明確な返事が無かった。
今、党に大したレベルの哲学者や経済学者が居るとは思えない。
唯物論の優れた一面は有るが、完全では無い。
寧ろ観念論哲学者と言われて居る人に多くの優れた人が居る様に思われる。
マルクスが「共産党宣言」を出した時、植民地政策が多くの国で取られて居たのに、「万国の労働者団結せよ」では無く、「万国の被植民地国民立ち上がれ」で無ければ成らなかったのでは。
寧ろ植民地政策から目を逸らす事に成ったのでは。
当時はイギリスでさえ労働者階級より農民の方が圧倒的に多かった。
被植民地国民を立ち上がらせたのは列強と対立した日本では無かったのか。
詰まり保守論者が言う日本は侵略国家では無いと言うのも一理有る。
まあ、石油を求めて南下したが、満州は攻めなくても…。
酷い軍閥の支配から庶民を解放したのだと言う人も居る。
それに石油だけが日本の生きる道とも言い難い。
まあ、空論かも知れないが…。
今、保守党の飯山あかりが盛んに言ってるのは、「日本人は勤勉だ。其処に活路が有る」と。
何れにしても、私が生きてる内は自民党に日本を壊されたくは無い。
移民政策やLGBTで日本が滅茶苦茶に成っても、年金だけは残して欲しい。
ロシアを利する「アイヌ民族を守れ」だとか、「(中国製の)太陽光パネルを推進しろ」だとか、共産党も滅茶苦茶。


やっぱり今日も言い訳に成った。
自己正当化が人間の本質だから仕方が無い。



今日も日中は33度。
もう、すっかり真夏。
喫茶店の隣の空き地に砂塵が舞った。
タイらしい風だ。
ふと、タイに居る事の是非を考えてしまう。
これで良かったのかと。


今日の朝食


さて、今夜は天ぷら素麺。
いつも美味しい料理をありがとう。