チェンライの日々

タイ(チェンライ)に住んで15年。日々の暮らしを綴ります。

追記(その6)(自叙伝補足)ー帯状疱疹後神経痛(2)ー


女に金を盗られるのは自業自得。
帯状疱疹で痛い目に合うのは運が悪い。
敢えて運が悪いと言って置こう。
自分が悪いのでは無い。
強いて言えば直ぐ病院に行かなかったのは自分が悪いと言えなくも無い。
最初に腰が痛く成ったので接骨医に行った。
そこで医者は帯状疱疹の可能性も有ると言った。
だからその医者が治療法も知って居ると思った。
妻は病院に行こうと言ったのだが、医者が妻に「私は専門外だが、帯状疱疹の可能性も有る」と言ったのかも知れない。
その微妙なニュアンスまで私には伝わらなかった。
しかも私は帯状疱疹と言う病をそれ程よく知らなかった。
その時、病院に行かなかった事を後でこれ程後悔する事に成ろうとは…。
私はその医者がくれた薬を飲み続ける事にしたのだった。
そして症状はその後悪化の一途を辿る事と成った。
その時の事をブログに書いて居るので、それを見てみると、薬が違って居るのでは無いかと言う疑念をいつも持って居た様だが、結局そのまま飲み続けた。
しかも、その時には既に手遅れだった。
疱疹が発症してから3日以内が服用の期限なのだ。
そして、その時には帯状疱疹に効く薬の名前さえ知らなかった。
勿論、接骨医も知らなかった。
足の痛みは全く治まらなかった。
寝る時に足首より下が布団に着くと痛くて眠れなかった。
だから足枕で足首より下が布団に触れない様にした。
それから2週間が過ぎて痺れが出て来た。
そしてやっと25日目にして「アシクロビル」と言う薬を飲み始めた。
ネットで分かったのだ。
しかし、時既に遅し。
その10日後、公立病院に行った。
医者は痛み止めの薬をくれた。
「痺れ?帯状疱疹なら当たり前ですよ」と言われた。
その10日後、軟膏も塗り始めた。
藁をもすがる思いだった。
その3日後、それまでは神経痛は温めるのが良いと思って一生懸命温めて居たのだが、逆療法で冷やして見た。
コンビニで売ってた「
さまシート」で。
すると痛みは少しましに成った様な気がしたが、寝た姿勢になると電気がビリビリ走る様に成った。
多分傷んだ神経節に来てると思った。
3日後に冷湿布は止めて、抗ウィルスクリームを塗った。
ふくらはぎから足の裏までの主に外側が痛かった。
そのまた5日後、今度はオーバーブック私立病院を訪ねた。
しかし、処方された薬もイマイチだと感じた。
その5日後、思い切ってアイスノンで冷やした。
するとびっくりするほど痛みが取れた。

それからは冷湿布を暫く続けた。
但し、痺れの方は一向に改善され無かった。
その1週間後、或る在住の人から鍼治療を勧められた。
その方のご家族はそれで治ったと言う。
最初は電気鍼は躊躇して居たが、慣れて来るとやって貰った。
足の裏は飛び上がるほど痛かったので、それも最初は躊躇して居たが、一向に治らないので結局やって貰った。
計18回やって貰ったが、大して効果は無かった。
その後、皮膚科の診療所に行って薬草と軟膏を貰った。
薬草の液に足を暫く浸けて置くと言うものだった。
最初の頃は気持ち良くて、効いてるかなと言う感じだったが、結局余り効果は無かった。
その後はアイスノンを足の裏にガムテープで巻いてるので、凍傷に成る心配も有ったので、冷湿布は止めて、唐辛子軟膏を塗る様に成った。
ヒリヒリするが、その後が気持ち良い。
その後は日にち薬で、最初は車椅子でデパートに行って居たが、杖を突いて歩ける様に成った。
そしてプールにも行く様に成り、水の中で歩行訓練をした。
2019年の3月からもう5年に成るが、痺れの方は未だに有る。
痛みの方は偶にピリッとする程度に成った。
最初の1年は自殺したく成るほど痛みも激しかったが、今では自殺しなくて良かったと思って居る。
放射能の半減期の様に、死ぬまでには低減して行くだろう。



今日もいつもの喫茶店はお休みだろうと思って覗いたらやって居た。
敷地内の排水管工事が終わって居た。
裏に貸家が有る。
多角経営だ。
屋根の有る駐車部分が満車だったので、東屋の敷シートを貸して貰って車に被せた。
「今、工事人が食事中なので…」とか訳の分からない弁解をして居た。
やっぱりいつもの喫茶店が落ち着く。
いつものメロンスムージーもいい。
後で考えたら結構我儘な事を言った様な。
我儘な事も言える良い喫茶店だ。
「日本人は偉そうに」と思ったかも知れない。
つい、日本人気質が出てしまう。
「日本なら有り得ない」
「日本なら工事人より客を優先するだろう」と。
まだまだ修行が足りない?


今日の朝食


さて、今夜はシューマイ。
いつも美味しい料理をありがとう。