チェンライの日々

タイ(チェンライ)に住んで15年。日々の暮らしを綴ります。

タイ移住を決断(自叙伝)


(昨日のつづき)


さあ、これからは自由にタイに行けるぞとはやる気持ちを抑えたが6月末には飛び立った。
今から思うと母を残してと言う選択肢も有ったのではと思う。
長年共に暮らして来たから離れる事は考えられ無かった。
一緒に移住しようと言うと母は激しく抵抗した。
しかし母を1人置いて行く事には不安が有った。
以前道端で転んだ事が有ったし、家の階段の登り降りにも不安が有った。
私がタイに移住しないと言う選択も有るのかも知れないが、妻の日常の食事が不憫だった。
母を1人にすると転んでも助ける者が居ない。
階段から落ちたら電話も出来ないかも知れない。
勿論、一緒に暮らして居てもそう言う事は有るだろう。
しかし私達が日本に居るのと居ないのとでは訳が違う。
90の母を置いて行けなかった。
母は都会人で足腰は弱い。
それで強引にタイに連れて行った。
犬も。
犬の飛行機代は16万もした。
人間より高い。
タイに着いて見ると妻の実家は田舎なので、都会で暮らしたく成った。
早速、街の中で家を探した。
家を探すのも実家のトラックは母の乗り降りが難しいので、乗用車を買おうと思った。
すると何処も納車に日数が掛かると言う。
ホンダなどは1ヵ月と言われた。
マツダに行くと「展示車は直ぐ乗って帰れる」と言われた。
デザインも気に入ったので手続きを始めたら、引き渡しは明日に成ると言われた。
それ位は待てるのでマツダに決めた。
家をあっちこっち探したが、中々適当なのが無い。
一度決めた物件が有ったが、義母が三角の土地は縁起が悪いと言うのでキャンセル。
GOOGLE MAPを見ると、BIG-Cスーパーの近くに小さい団地が有ったので行って見た。
すると「売り家」の看板が。
大家に電話すると直ぐ来てくれた。
団地の端にポツンと建って居て、娘の為に建てたが娘はバンコクに行った切りだと。
裏はだだっ広い草地が広がって居て少々不安だったが、其処に決めた。
何故か隣りだけ芝生で、母が「安いのなら買ったら」と言うので一緒に買った。
芝地は140平方メートル70万バーツ(≒210万円)。
家が建って居た敷地も同じ広さで70万バーツ。
家は80万バーツ(≒240万円)。
最初は日本と行ったり来たりして居たが、タイの方が断然良く成って来た。
春と秋は日本へ、夏と冬はタイで。
ところが物価はタイが安いし、夏も雨季で暑くない。
日本は春も秋も短く、直ぐ暑く成ったり寒く成ったり。
勿論タイの冬は心地良い。
タイで過ごす日の方がどんどん長く成り、何度目かの帰国時に日本の家を売却。
長く空けると家も傷むからだ。
そして、タイの裏の土地も買い足した。
牛が草を食みに家の裏まで来て居た。
全部で6軒分に成った。
田舎に住んで居た妻の母と姉と町の学校に通って居た姪も一緒に住んだ。
3LDKで6人家族は狭かった。
狭いので裏に増築した。
露天風呂も作った。
家から歩いて5分の所にBIG-Cスーパーも在り便利な場所だ。
唯、日本の野菜などは余り売って無いと思って居たので、朝食はパンだった。
夕食もカレーとか焼飯とかに限られて居た。
唯、妻は日本に10年居たので日本料理は上手かった。
最初の頃は山椒の実も市場で売ってる事を知らなかったので、帰国時に煮炊きして持って来た。
カレー粉も日本から持って来た。
今では麩以外は大概手に入る。
そう言えば茗荷や梅肉は無い。
梅干しは有るのだが…。
今は30種類のメニュー表を作って日替わりで食べて居る。
朝食は目玉焼きと味噌汁と漬物(大根・ナスビ・胡瓜・白菜・人参・ラッキョウ)と蒟蒻。
渡タイ後1年位で日本人会に入ったが、それから1年後に役員に成ってくれと言われた。
お世話の人も大変だと思い協力しようと思った。
それまでに毎月日本人を呼んで庭でガーデンパーティーを開いて居た。
多分それが目に止まったのだろう。
役員に成って見ると大変だった。
今までの役員のお手伝いをする積りが総入れ替えだった。
そして新参者ばかりの中でも一番入会が早かった私が会長に成った。
他にする事も無かったので全精力を傾けた。
私の生き甲斐に成った。
そんな中で妻と衝突した。


(つづく)



今日は珍しくプールに若者達が来て居た。
太った女の子1人と男の子5人。
2人1組で騎馬戦をやって居て楽しそうだった。
私にはあんな時は無かった。
1人70バーツ(≒280円)するから貧しくは無い。
学生か勤め始め位。
学生が飲むコーヒーは大体35バーツ位だ。
まあ、コーヒーを飲む位ならメシを喰うだろう。
可愛い子とデートする以外は余り喫茶店で見ない。



今日の朝食


さて、今夜はおでん。
いつも美味しい料理をありがとう。