チェンライの日々

タイ(チェンライ)に住んで15年。日々の暮らしを綴ります。

誕生~大学時代(自叙伝)


(昨日のつづき)


私は1949年に京都府瑞穂町で生まれ、父が保険の代理店をして居たので府内の福知山市に住んで居たが、3歳の頃同じく府内の八幡市に転居。
福知山市では隣家が市長さんの家と言う位しか覚えて居ない。
母は近くに音無瀬橋が在ったと。
八幡市では八幡宮の裏から下りて直ぐの所だった。
他には家に風呂が有った事と、近所に渋柿が生って居た事を覚えて居る。
そして、父が京都支社に異動に成ったせいか、幼稚園の途中で左京区の下鴨に引っ越した。
その家で兄は八百屋を営んで居たが、父が部長に成ったせいか、兄も同じ保険会社に入社した。
店に並んで居た果物の缶詰を今でも懐かしく覚えて居る。
10歳以上離れて居た兄には「炎」などの歌声喫茶によく連れて行って貰った。
兄は組合役員だったのか労働歌を好んでよく歌った。
(但し、晩年には自民党の応援をするのだが…)
私は小学校から地元の下鴨小学校、中学校、高校と進み、高校は当時設定されて居た通学区に従い、少し遠い紫野高校に成った。
小学生の時は担任の先生に可愛がられて学級委員などにも成った。
そして高校に入ると中学では入った事も無い運動クラブに入った。
背を高くしたいと思いバレー部に入った。
するとそこは中学からの経験者の猛者ばかりで、
私だけチビで青白くて弱々しい場違いの存在だったが、
精神的に幼かったので何故か辞めると言う選択肢を思い付かず3年間続けてしまった。
3学年先輩時は全国3位と言う名門校だったが、公立のどちらかと言うと進学校で、
部員も少なく、私が1年の時は7、8名だったので、殆ど1人でボール拾いをした。
勿論補欠で、2年に成ると下級生が入って来たのでボール拾いは若干楽に成った。
3年に成るとたった1人の同級生が進学勉強のせいか辞めてしまった。
(後日、彼が剣道部に入って居るのを見て、少し腹立たしかった。
多分彼は選手の自分1人が残ってもシンドイと思ったのだろう)
お陰で私は補欠からいきなりキャプテンと成り、右も左も分からないまま顧問の言うなりだった。
幸いОBは毎日指導に来てくれたので技術は磨かれて行った。
彼は近所でスポーツ店を営んで居て夕方は融通が利いたのだろう。
(彼の弟は私の3年先輩で、当時弟は全国ナンバーワンアタッカーと言われて居た。
高校卒業後は直ぐに実業団の住友軽金属のセッターとしてレギュラーに成った。)
私はキャプテンと言う立場も有り、辛くても頑張ったので、炎天下2度倒れた事が有る。
だが、府内の国体予選では3年が背の低い私1人と言う事も在って直ぐ敗退した。
2年もチビ揃いだった。
1年は背の高いのが揃って居たので、私が辞めたら直ぐシード校に成った。
唯、伝統クラブのキャプテンと言う事も在って、女の子にはモテモテだった。
文化祭のフォークダンスの相手には普段喋った事も無いクラスで一番可愛い子に電話したら即OKだった。
学年全体でも女の子からチヤホヤされたが、残念ながら晩熟の私は練習に明け暮れた。
今と成ってはそれが一番の心残りだ。
そんな訳で一切受験勉強をして無かったので、担任の先生に「浪人させて貰いなさい」と言われた。
父は高3の時、心臓マヒで亡くなった。
よく心筋梗塞の発作を起こして居た。
母が背中を擦って居たのを切なく思い出す。
父が亡くなった後もノホホンと過ごし、2年浪人して同志社に入った。
1年目は関西文理学院と言う予備校に通ったが、勉強の仕方がマズかった。
2年目は従兄の友人の京大の学生に家庭教師して貰ったらすくすく伸びた。
最初は近代経済学系だったが、数字に弱いので2年からはマル系(マルクス経済学)に変更した。
ゼミは中国経済を専攻した。
商業や工業、農業のグループに分かれ、私は農業グループを選んだが、
少人数でしかも余り勉強しないグループだったので、月1で当たる研究発表は殆ど私が行った。
教授は共産党員だったが、当時は余り知らなかった。
(後に、私の結婚式の祝辞で長々と蜷川民主府政などの話をしたのでハッキリ分かった。)
そう言えば、当時から中国の農業経済は変だと言って居た。
(今思えば小学校の図書室にソヴィエトの計画経済を賛美した本が有り、共産主義に一種憧れも有った。
そう言えば、同窓会で同窓生が小学校には共産党の先生が沢山居たと言って居た。
中学校のあの先生もそうだと。)
同じゼミに共産党員が居て、私に近寄って来たので友人に成り、民青に入った。
当時は革マルやブント(共産同)などの過激派と対峙して居たが、ブントから民青に入って来る者も居た。
民青には小学校の幼馴染も居た。
彼は小学生の時は秀才だったのだが、過激派にやられて半身不随では無いが脳にダメージを受けてびっこを引いて居た。
頭も少々おかしく成って居た。
子供の頃は一緒に遊んだのだが…。
大学1年の時は背が低いのでサッカー同好会に入った。
御所の芝生で練習して居たのを見たのがきっかけだった。
パトカーが廻って来ると隠れた。
だが、格闘技であるサッカーはボールを持ってる者を蹴りに来たりするので怪我が多かった。
それで2年からはバレー同好会に入ったのだが背が低いので選手には成れなかった。
授業はゼミ以外は余り出なかったので1年の時に大幅に単位を落とし、後1単位を落とせば留年と言う状態が卒業まで続いた。
後で知ったのだが、他の者は試験前にサボ(出席した者のノート)を買って勉強して居たのだった。
普段は哲学や心理学、仏教の本を図書館で毎日読んで過ごした。
就職先は元々儲ける事が嫌だったので京都府の公務員試験を受けた。
試験場には大学の同学年の者が猫も杓子も受けに来て居たのでびっくりした。
「ブルータスお前もか」と言う感じで、私の友達が2人とも来て居た。
彼らは公務員試験の勉強もせず思い付きで来たのだろう。
同志社からは2人通った。
当時、公務員人気で競争率は30倍と新聞に書かれて居た。
1974年が最高の採用人員だったらしい。


(つづく)



追伸


今日も喫茶店でブログを書いた後はプールに行った。
水面に花粉の様なゴミが一面に浮いて居たので、今日は歩くのを止めて、その場でジャンプした。
と言ってもそんなに激しいジャンプでは無い。
左足は帯状疱疹だから右足だけで軽くその場飛び。
プールサイドにはヤシの木が有り、それを眺めながら「何て幸福なんだろう。」とつくづく思った。
妻の美味しい手料理を毎日食べ、涼しい喫茶店でメロン・スムージーを食べながらブログを書く。
その後は貸し切りのプール。
これはタイならではだろう。
冷え切った体をプールサイドで温める。
その後は家で露天風呂。
腎臓は悪いがもう少し生き延びたい。



今日の朝食


さて、今夜はイカ大根。
いつも美味しい料理をありがとう。