チェンライの日々

タイ(チェンライ)に住んで15年。日々の暮らしを綴ります。

本庁での仕事(自叙伝)


(昨日のつづき)


本庁では総務課調査広報係の調査担当で「学校基本調査」の内の「卒業後の状況調査」を担当した。
京都市立を除く府内の全公立小中高の事務員を集めて、調査の説明会などもした。
元の職場の懐かしい先輩事務員の顔も在った。
説明会にはいつも京都市の担当者も臨席して親しく成った。
(京都府は政令指定都市である京都市以外を管轄する。

但し、府立高校と市立高校は市内に混在する。)
左手で電卓を打つ様に成ったのも彼らに感化されたからだ。
電卓を見ずに左手で打ち、右手のペンで書いて行く。
高校進学率や大学進学率などを毎年記者発表するのだが、発表前に乙訓の教員組合の書記長にリークした。
すると彼は数字よりも統計本が欲しいと言うので待ち合わせをして渡した。
(もう時効だろう。)
各学校に1冊教務主任などが参考にする貴重な本なのだ。
係の隣室には記者クラブが在り、広報担当が記者の世話をする。
家に咲いた朝顔の植木鉢数鉢を記者クラブに飾った事も有る。
従来、活版印刷だった「卒業後の状況調査報告書」を当時部屋に設置されたてのワープロに打ち込んで作成した。
お陰で目が悪く成った。
「学校基本調査書」の担当者も私の真似をして翌年自分で作成した。
3年も同じ単調な数字ばかりの仕事に飽きて居たら福利課の庶務係に異動に成った。
(まさかリークがバレた訳では有るまい)
教員の共済組合の担当課で京都市立校を除く府内全教職員に「福利きょうと」と言う共済誌を毎月発行した。
そこで広報の楽しさを経験した。
それと毎年、京都国際会館で催す「退職者のつどい」を担当した。
案内状の発送が主な仕事だが、返戻が結構有った。
(私も返戻に成って居るだろう。タイには届く筈が無い。)
テーブルの配置や料理の確認など会館との連絡・調整もした。
知事挨拶や出し物などは課長が差配した。
通常は共済掛金から支出するので課長決裁だが、この事業だけは府費も含まれるので財政課の決裁だった。
中々決裁が下りず、下りたと思ったら「執行協議」と朱書きされて、後はどう成ったかよく覚えて居ない。
また、共済掛け金を共済組合本部に送金するのだが、教員数を元に適当に算出して毎月何億円かを送った。
課長印を押印した支払い伝票を庁内の銀行出張所に持って行くのだが、最初の頃は緊張した。
だが慣れると億の数字も不感症に成った。
本部から額が少ないと偶にお小言を言われた時は、計算間違いだと言って追加した。
(今から思うと、本部でも資金に余裕が無い時は今回は京都にでも言って置けと言う事だったのかも。)
年間で帳尻が合えばいいのだ。
下手な担当者だと思われても、47県も有れば目立たなかったろう。
当時、学校教育課は「ゆとり教育」とかで「西の文部省」と言われたが、福利課は関係無い話だ。
それと各教育局の共済経理を管轄して居た。
仕事は面白かったが人間関係が悪く、2年で異動希望を出した。
息抜きに庁内の生協の顔見知りの担当者に安近短の海外旅行パックを頼んで置いた。
フィリピンのセブ、タイのパタヤ、インドネシアのデンパサールの内、パタヤが取れたと連絡が有った。
初めての海外旅行にして初日に飛行機が整備不良で飛ばなかった。(タイ航空)
大阪のホテルに泊らされた。
怒ってキャンセルした人も居た。
私も4泊5日が3泊4日に成ってガッカリだった。
しかし、バンコクに着くと、其処は終戦直後のバイタリティーと、何処か懐かしい優しさに溢れて居た。
そこでタイに嵌り、それから何度も渡タイを繰り返す事に成る。(その話はまた後日)


(つづく)



追伸


今日は6時半に目が開いて外灯を消して回った後、また寝床へ。
布団を被ってベッド横のパソコンを眺めて居たが怠く成って体を反対向きに。
布団をはだけて寝てると冷たい空気が肌を刺す。
夜中に閉めて居たカーテンを開けたのだ。
妻が起きて来たのでベランダに出ると、彼女は「今日は寒いネ」と。
「何処かで雨が降ってるのよ」と言ったが、私は夜中に晴れてたせいだと思った。


今日も喫茶店の後プールに行ったが、タイの親子連れが来て居た。
頑張って水に浸かったがメチャ冷たい。
タイ人は暑さにも強いが寒さにも強い。
毎日暑い日が続くが、PM2.5のせいで冷たいのだろう。
やっぱり直射日光が差さないと水は温まらないのだ。
陽を見るとボンヤリ霞んで居る。
5時に帰ってベランダの温度計を見ると30度だった。



今日の朝食


さて、今夜は鯖素麺。何でこんなに旨いんだろう。
いつも美味しい料理をありがとう。