チェンライの日々

タイ(チェンライ)に住んで15年。日々の暮らしを綴ります。

子供時代(自叙伝補足)


(昨日のつづき)


小学生の頃はビー玉やメンコでよく遊んだ。
家の前は未だ舗装して無かったと言う事に成る。
メンコは油に浸した少し大きめのメンコを持って居た子が居た。
中々捲れ無かった。
でも捲ったら自分の物に成るので必死に成った。
紙芝居もよく来た。
5円だったろうか。
1円だったろうか、よく覚えて居ない。
どんな飴だったかもよく覚えて居ない。
勿論、紙芝居の内容も。
他愛のない内容だった様に思う。
駄菓子屋に赤い甘酸っぱいお菓子が有った。
生姜板の様な、薄くて割って食べた。
今タイに有れば其れが一番食べたい。
確かサッカリンの味がした様な…。

ラムネのお菓子をダイソーで売って居た。
昔の味だった。
べっこう飴も食べたい。
近所のおばさんが豚まんを始めたが、しつこく値切った。
漸く負けて貰って家で自慢したら父に叱られた。
それ以降、値切る事に躊躇する様に成った。
父は厳格だった。
汽車で窓に向って唾を吐いたら父の顔に当たった。
父が私を睨んだのでびっくりしたが、父は何も言わなかった。
寝て居る父の顔の上で火箸を回して遊んだら、父は飛び起きて叱った。
わたしも結構おっちょこちょいだった。
だが末っ子の私を父は大そう可愛がった。
後年、姉達は私が羨ましかったと言って居る。
或る夕食時に母は冗談で私に「遠慮しなくていいのよ」と言った。
父はちゃぶ台返しで怒った。
何故そんなに怒るのか私には訳が分からなかった。
母は平謝りだった。
高3の時だった。
そして父は其の年に亡くなった。
後で分かった。
母は後妻だったのだが、私は連れ子では無い。
兄や姉達が行って無い大学に私だけ行かせて貰った事を今も感謝して居る。


(つづく)



昨夜は真夜中に雷雨が有った。
妻は犬を繋ぎ直した。
小腹が空いたのでラーメンを作って貰った。



妻は夜眠れなかったのか正午まで寝て居た。
私も気だるくて中々喫茶店に行けなかった。
久し振りにいつもの喫茶店に行ってメロンスムージーを飲むと、漸く調子が出て来た。
一雨降るととても涼しい。
もっと降ってくれれば良いのだが…。
夏から春に戻った感じ。
あゝ、また明日から暑い日に成るのだ。


今日の朝食


さて、今夜は冷うどん。
いつも美味しい料理をありがとう。

家族の事(その2)(自叙伝補足)

(昨日のつづき)


父は警察官だったので軍隊では憲兵に成った。
少し徴集が遅かったので年を取って居て辛かったそうだ。
唯、頑張ったので2階級特進で上等兵に。
心臓が悪いので兵役で無理をしたのだろう。
南方のジャングルの水中の行進で傷めたのだろうと思って居たが、満州だった。
引き揚げの時は憲兵は真っ先に狙われるのだが、父は中国人に優しかったので逃がしてくれたと。
それで皆を引き揚げさせてから自分も舞鶴に戻ったと。
戦後は保険の代理店に勤めた。
京都支店で部長に成ってからは組合交渉も担当したと。
組合からは一目置かれたらしい。
筋を通して頑固だったと。
民社党支持だった。
私は子供心に「何だ」と思って居た。
私は社会党支持だった様に思う。
母は父に従順だった。
母は尋常小学校の時は優等生で、中学校に上がって先生から「2番で我慢しなさい」と言われたと。
「1番は金持ちに譲りなさい」と言われたらしい。
ソフトボールもピッチャーだったと。
それで肩を傷めた。
一生傷に成った。
右腕が上がらなかった。
母は再婚で前夫は病気で1年で死んだらしい。
父も再婚で兄や姉とは腹違い。
でも私は父が亡くなるまで知らなかった。
仏壇の過去帳を見て母に尋ねて分かった。
でも今でも兄や姉は実の兄弟の様に思って居る。
子供の時に兄弟だと思って過ごしたら其れは兄弟なのだ。
上の姉にも兄と同じ様に歌声喫茶によく連れて行って貰った。
下の姉は年が一番近かったのでよく喧嘩した。
皆結婚して家を出て行ったので祖母が亡くなると3人暮らしに成った。
そして父も祖母の後を追う様に亡くなったので、高3からは母と2人暮らし。
父の遺産で安アパートを買って、その賃料で私は育てられた。
そしてバブルの時に1億で売れた。
唯、所得税は4千万だった。
家の敷地は隣の社長が地主から内緒で買って居て、やがて我々に出て行く様に嫌がらせを言う様に成って居た。
そんな中、母が京都の長者番付に載ったので社長はびっくりして飛んで来たそうだ。
でも結局家を売る事にした。
結婚して近所のアパートで暮らして居たが、母を1人にして置けないと思った。
妻が子宮がんで母国で治療中、母が近所に新築物件の広告を見つけた。
妻が戻り、其処で10年暮らしてタイに来た。


(つづく)



今日も朝食後、気だるくて中々起きられ無かった。
唯、何時までもグダグタ寝て居ても良く無いと思い、思い切って喫茶店に行く事にした。
今日も何時もの喫茶店がお休みなので少し遠くのGREEN HOUSEに。
昨日と同じブルーベリー・ホーラパー(バジル)スムージー。
それを飲んで少し目が覚めた。
今日は他に客も来て居た。
今日もブログを打ちながら緩やかな午後が過ぎた。



今日の朝食。


さて、今夜はトマト・スパゲティー。いと旨し。
いつも美味しい料理をありがとう。

家族の事(自叙伝補足)

(昨日のつづき)


人事異動は3年若しくは5年と言われて居た。
府税事務所は基本3年で動いて計9年だった。
植物園は5年だった。
家から車で5分。
近過ぎてマフラーが傷んでしまった。
温まるまでに着いてしまうのでマフラー内に蒸気が残るのだ。
概して近くの勤務地が多かった。
資料館も5分。
府庁も10分。
大学も10分だった。
教育局と保健所を除き、他は全て京都市内だった。
考えて見れば恵まれて居た。
通勤ラッシュの経験が無い。
唯、保健所の通勤だけはハードだった。
狭くて急峻な峠を二つ。
冬は凍て付いて滑った。
それも2年。
職場の回りは山の自然に囲まれて居た。
管轄地の美山町の山の煙を見て、退職後は此処に住みたいと思った。
タイに移住後、3人で此の地の温泉に訪れた事が有る。
やっぱり行楽には良いが住むには暖かい方が良いかも。
実は妻の姪を京都の日本語学校に通わせた事が有る。
其の時、美山町の人と見合いをさせた。
若し結婚して居たら今頃どんなに成って居ただろう。
彼女は今、タイで幸福に暮らして居る。
私も日本人と見合いをして結婚して居たら、今頃…。
人生とは分からないものだ。
今は暖かい地で暮らしてとても幸福だ。
毎日、日本と変わらない和食で…。
妻はタイ語で喋って、私は日本語で返して居る。
認知症に成れば彼女は日本語で問い掛けてくれるだろうか(笑)。
そう言えば、いつも「ご飯出来た!」と言って居る。
自叙伝が直ぐ今の話に成ってしまう。
妻とはよく日帰り温泉に行った。
京都の隣県の温泉は殆ど行った。
富士山にも行った。
南は湯布院の近くの長湯温泉。
炭酸温泉で有名だ。
其処に姉が住んで居る。
義兄が退職後移住した。
私が日本に住んで居たら度々行っただろうに…。
もう1人の姉は宝塚。
百万ドルの夜景。
皆散り散りばらばら。
兄は早く他界した。


(つづく)



今日はいつもの喫茶店が休みなので、少し遠くのGREEN HOUSEに。
すると「久し振りネ」と言う笑顔で出迎え。
迷わずブルーベリー・ホーラパー(バジル)スムージー。
少し高めの80バーツ(≒320円)
一味違う。
そして、その前に散髪。
此の店も80バーツ。
馴染みの店で一番安い。



今日の朝食。


さて、今夜はイカ焼き。
いつも美味しい料理をありがとう。

府税職場の頃(自叙伝補足)


(昨日のつづき)


学校から同じ時期に教育局に異動して来た者は私より先に他に異動した。
私は其のまま支部の執行委員で留まったが、新しく来た者が分会長をした。
私より少し年下の京大卒だった。
彼はバトミントンが好きで、よく私を誘ってくれた。
管内の学校の体育館を借りた。
その学校から教育局に異動して来た者が居たのだ。
知事選の時は票読みの点検を私が彼にしたが、毎日するので、「毎日増える訳無いでしょう」と彼は泣き事を言った。
後に彼は税務課長と成り、知事公室長に成った。
彼が税務課長の時、私は府税支部の執行委員で、支部役員全員が一番前に座って彼と交渉する。
その頃の私は心臓に毛が生えて居て、居眠りをしそうに成る。
と言うのも、支部長が殆ど喋り、課長の回答も長々と冗漫だからだ。
交渉後、彼は私に近寄って来て、「お母さんはお元気ですか」と。
そう言えば、新任の府税事務所長が異動して来た時「赤旗を取れ」と迫ったら、「京都民報で堪えてくれ」と。
京都民報は共産党系の地方紙だ。
本部交渉の翌朝は支部役員が交渉の職場報告を時間中にするのが恒例に成って居た。
いつも原稿を用意するのが大変だったが、書記長が「府税新聞」を朝にファックスしてくれるので参考にした。
窓口担当は来客が有れば対応するが、来客者は「何やってんだろう」と奇異に思ったかも知れない。
電話が掛れば皆机の下に屈んで対応した。
次長や課長にも「府税新聞」を配るので、「フムフム」と読んで居た。
そう言えば、同じ係に反主流派の組合のボスが異動して来た。
交渉報告の時は妨害されるのではと
冷や冷やして居たが、結局何も無かった。
他の人の話では彼は私を尊敬して居たと。
定期大会ではいつも反主流派とは喧々諤々だった。
それと、職場の課会議の時に係長が「昼窓の支部の見解はどうなんですか」といきなり私に振って来た。
当局の会議なので躊躇した。
組合の意見を言うと組合会議に成るので…。
すると反主流派のボスが「組合さんはどうなんですか」と。
已む無く支部の見解を述べた。
課長は只聞くだけだった。
統合前の事務所は小さく、昼は収納係が交代で対応して居たが、その際、他の部分はカーテンを閉めて居た。
大きな事務所に成ると、カウンターが長くてカーテンも無く、仮に有っても一々閉めるのも大変。
其処でカーテンは閉めないと言う方向だった。
仮に開けて居てもガランとした部分が大部分なので、昼休みと言う情景は歴然として居る。
唯、弁当を席で食べてる者も居るので来客者から見えれば何か言われる可能性は在った。
そう言えば区役所はどうして居るだろう。
何だか遠い昔の話の様な気がする。


話が直ぐ府税の話に成ってしまうが、やはり一番長かったせいかも知れない。
夢も殆ど府税の夢が多い。
ストレスも多かったが、組合でも色んな経験をした。
最近漸く現役の時の夢は減って来た。
今は家族の夢が増えた様な気がする。


(つづく)


市場


ところで今日は或るYOUTUBEを見て今更ながら愕然とした。
WHOの会議だが、出席国が3分の1ほどで定足数を確認しないで決議して居る。
出席国から異議が出ても、出席国の過半数の賛成でOKだと。
決議の内容は、今後パンデミックが起こった場合、一部の製薬会社が利益を独占して良いと言うもの。
詰まり、今後またパンデミックを起こされる可能性が在る。
日本政府はこの決議を是認する様だ。
まあ、私は今はどうでも良いのだが…。
我がチェンライ日本人会でも定足数無しで成立する。
まあ、どうでも良いのだが…。


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今日の朝食はクィッティアオ(うどん)。
ちょっぴり辛い。


さて、今夜はうな丼。
いつも美味しい料理をありがとう。

妻との出会い(自叙伝補足)

(昨日のつづき)


最初の勤務地の学校事務の5年間は1日も年休を取らず、何かそれが美徳の様な事務所の雰囲気だった。
次の教育局の時代は組合役員をしたと言う事も在って、権利に目覚め、体制に反抗する様に成った。
役員仲間とよく飲みに行った。
その後も付き合いが続き、結婚式の司会を頼んだ。
府職労現業議長と福祉支部長、それに教育局の同志の3人に。
すると当時、府税職場だったので、府税支部長が支部主催にすべき(笑)と言って、役員を動員した。
同じ府税職場の同僚で飲み友達でも在った本部の書記次長も参加してくれた。
お陰で親族対労働運動家と言う変わった構図の披露宴と成った。
彼女の親族は呼べ無かった。
彼女の実家でも式を挙げた。
渡タイを繰り返す内、空港のタクシーの運転手と知り合いに成った。
彼は夕方いつも競技場内をジョギングするので私も倣った。
彼は奥さんと結婚する時にイスラムに改宗したと言って居た。
彼の家にも行く様に成り、やがて女の子を紹介してくれと言った。
其処で妻と出会う。
妻は仏教徒。
私は仏教徒では無いがキリスト教徒よりは親和性が有る。
いや、それより彼女は大人しかった。
今とは大違い。
唯、声の柔らかさは今も同じ。
彼女は10年間一緒に日本で暮らしたので料理が上手。
姉が驚いて居た。
黒豆の煮炊きが日本人より上手だと。
唯、彼女は日本料理は余り食べず、夜は即席ラーメンをよく食べて居た。
可哀想だと思ったが、実は昼の間、京都市内をグルメ旅行して居たのだ。
土日に外食すると彼女の方がよく知って居た。
それで初めて気付いた。
昼の内にご馳走を食べるので夜は小食なのだと。
トロとかウニが好きだった。
イクラも。
でも回転寿司にもよく行った。
琵琶湖の近江舞子にもよく犬を連れて行った。
帰りは王将。
市内でも王将にはよく行った。
但し餃子は旨い店が在った。
「ミスターギョーザ」、行列の店だった。
夕方に成ると奥さん達がタッパーを持って並ぶ。
ラーメンも旨い店が在った。
「天下一品」。
こってりが旨かった。
妻も大好き。
結婚は滞納税担当の時だったから、ストレスは妻が癒してくれた。


(つづく)



今日は久し振りにプールに行った。
4日振りなので少しは水も温かく成ってるかと思ったが、相変わらず冷たい。
やっぱりPM2.5のせいだ。
1時間で切り上げて輸入食品店に行ってバスクリンを買った。
お気に入りの「ゆず」が無い。
仕方が無いので「ジャスミン」を買った。



その後、いつもの喫茶店に。
帰り際に、「次の月火は休み」だと。
余り客が来ない店なのに休んでいいのだろうか。
そう言えば定休日が無いのも珍しい。
今日も貸し切りだった。



今日の朝食


さて、今夜はトムヤムプラー(魚スープ)丼。
いつも美味しい料理をありがとう。