チェンライの日々

タイ(チェンライ)に住んで15年。日々の暮らしを綴ります。

追記(その8)(自叙伝補足)ー父のことー


父の思い出は高3の時に亡くなったので母ほどは多く無い。
誇りに思えるのは正義感が強く、人に優しいと言う事だった。
だから保険の外交員のおばちゃん達に人気が有った様だ。
掛け捨てで無い保険も自分が始めたと自慢して居た。
共栄火災海上保険。
今は何処も掛け捨てでは無いだろう。
警官・軍人だった事も在ってか、厳しい人だった。
唯、私は甘やかされて育った。
動物園で抱っこされてる写真がいつも目に浮かぶ。
そして心筋梗塞で悩んだ父の事も…。
退職真近に成って仮免許の最中に心臓発作で倒れた。
指導員の話では急に持たれ掛って来たと。
救急病院に運ばれた時は亡くなって居たと。
近所だったので母と行った時は霊安室だった。
母は振り向いて私にすがった。
私は高3ながらこれからは自分がしっかりしなければと思った。
父と母と3人で映画館や芝居を見に行った事が有る。
確か小学生の頃だった様に思う。
それから7人家族だったので、皆で姉が勤めて居た三菱銀行の箱根の温泉宿に行った。
「仙石山荘」だ。
赤絨毯の玄関が何故か懐かしい。
これが7人で行く最後だと言って居た。
それで姉が結婚し、兄が結婚し、下の姉が結婚し、祖母が亡くなり、3人に成った。
高校生の頃は何か父が疎ましく、苦手だった。
だから食事の時も何処か落ち着かなかった。
中学生の頃、何か空虚で自殺願望の様な気持に成った。
そんな時、父は近所の家を買いたいと言って図面を見せた。
それで何故か自殺願望が無く成って居た。
そうそう、子供の時、家のお風呂に入って熱い湯に入って10数えなさいとよく言われた。
熱い湯が苦手だった。
木の風呂で蒔きで燃やして居た。
借家だったが広い土間が有った。
結婚して一度訪ねたが辿り着け無かった。
男山八幡宮の麓の家だった。
今、父のアルバムを見返して見ると、父の会社時代の写真がいっぱい有る。
一体どんな人生だったんだろう。
時間が有ればこれから見返して想像して見たい。



夕食に食べ残した下ろし蕎麦を夜中に食べたので朝食を食べるのが遅く成った。
喫茶店に着いたのは夕方4時。
家ではブログを書く気がしないからだ。
メロンスムージーを飲むとシャンとした。
ミキサーの性能が違うのか、家のミキサーでは喫茶店の様に氷が細かく成らない。
家でもスムージーが食べたいが、ミキサーを買い換えてくれとは言えない。
若し家で出来るなら氷水スムージーでも良いのだが…。
急いでメロンスムージーを掻き込んだら頭が痛く成った。
もう、外は真夏だ。


今日の朝食


さて、今夜は鯖缶煮。
タイの缶詰なのでちょっぴり辛い。

追記(その7)(自叙伝補足)ー母のことー

少し母の事を思い出した。
父の遺産で宇治に安アパートを買ったのだが、車を買うまでは毎月の集金に母をバイクの後ろに乗せて通った事も有る。
それから電車で通った事も。
何故か懐かしいあの頃。
最後の方は借家人も少なく成って居た。
2階建てで全8軒位の内1-2軒だった様に思う。
家賃は幾らだったか覚えて居ないが、それで家計が維持出来たのか。
母は保険の外交員もやった。
無口な母によく勤まるものだと思った。
内職もやった。
裏面にカドミウムが含まれてる様なカーボン紙を剥がしては懸命に重ね直して居た。
内職は色々やったが覚えて居ない。
そうだ。下絵が書かれた布地に塗り絵の様な事もして居た。
最後にバブルでアパートが高く売れたが、兄や姉達に分配した。
兄には家を買い与えた。
その後、母が80の時に結婚し、母もやれやれと思った事だろう。
そして10年間3人で暮らした。
その頃が母は一番幸せだったろう。
謡曲を趣味にして居た。
そして渡タイし、7年後に亡くなった。
母を日本に残して行けなかった。
渡タイ後、腰を傷め、最後は車椅子から寝たきりに成った。
風邪をこじらせて肺炎に成り入院したが、集中治療室は薄着で冷房がキツく、強い薬は高齢者には使えないと言うので、医者は止めたが退院させた。
1週間後、亡くなる直前、目を瞑ったまま「ありがとう。楽しかった」と言った。
本当に認知症だったのかと驚いた。
夕食を済ませて母の部屋に行くと、息を引き取って居た。
口を開いたまま静かに事切れて居た。
最後に傍に居てやれなかったのが残念だが、今もその最後の言葉が心の慰みに成って居る。
無理やりタイに連れて来たからだ。


今も感謝して居る。
母の子で良かったと。



今日は車の修理中で妻の車で喫茶店に来た。
幸い屋根の有る駐車場は空いて居た。
外はもうすっかり真夏だ。



今夜は下ろし蕎麦。
いつも美味しい料理をありがとう。


追記(その6)(自叙伝補足)ー帯状疱疹後神経痛(2)ー


女に金を盗られるのは自業自得。
帯状疱疹で痛い目に合うのは運が悪い。
敢えて運が悪いと言って置こう。
自分が悪いのでは無い。
強いて言えば直ぐ病院に行かなかったのは自分が悪いと言えなくも無い。
最初に腰が痛く成ったので接骨医に行った。
そこで医者は帯状疱疹の可能性も有ると言った。
だからその医者が治療法も知って居ると思った。
妻は病院に行こうと言ったのだが、医者が妻に「私は専門外だが、帯状疱疹の可能性も有る」と言ったのかも知れない。
その微妙なニュアンスまで私には伝わらなかった。
しかも私は帯状疱疹と言う病をそれ程よく知らなかった。
その時、病院に行かなかった事を後でこれ程後悔する事に成ろうとは…。
私はその医者がくれた薬を飲み続ける事にしたのだった。
そして症状はその後悪化の一途を辿る事と成った。
その時の事をブログに書いて居るので、それを見てみると、薬が違って居るのでは無いかと言う疑念をいつも持って居た様だが、結局そのまま飲み続けた。
しかも、その時には既に手遅れだった。
疱疹が発症してから3日以内が服用の期限なのだ。
そして、その時には帯状疱疹に効く薬の名前さえ知らなかった。
勿論、接骨医も知らなかった。
足の痛みは全く治まらなかった。
寝る時に足首より下が布団に着くと痛くて眠れなかった。
だから足枕で足首より下が布団に触れない様にした。
それから2週間が過ぎて痺れが出て来た。
そしてやっと25日目にして「アシクロビル」と言う薬を飲み始めた。
ネットで分かったのだ。
しかし、時既に遅し。
その10日後、公立病院に行った。
医者は痛み止めの薬をくれた。
「痺れ?帯状疱疹なら当たり前ですよ」と言われた。
その10日後、軟膏も塗り始めた。
藁をもすがる思いだった。
その3日後、それまでは神経痛は温めるのが良いと思って一生懸命温めて居たのだが、逆療法で冷やして見た。
コンビニで売ってた「
さまシート」で。
すると痛みは少しましに成った様な気がしたが、寝た姿勢になると電気がビリビリ走る様に成った。
多分傷んだ神経節に来てると思った。
3日後に冷湿布は止めて、抗ウィルスクリームを塗った。
ふくらはぎから足の裏までの主に外側が痛かった。
そのまた5日後、今度はオーバーブック私立病院を訪ねた。
しかし、処方された薬もイマイチだと感じた。
その5日後、思い切ってアイスノンで冷やした。
するとびっくりするほど痛みが取れた。

それからは冷湿布を暫く続けた。
但し、痺れの方は一向に改善され無かった。
その1週間後、或る在住の人から鍼治療を勧められた。
その方のご家族はそれで治ったと言う。
最初は電気鍼は躊躇して居たが、慣れて来るとやって貰った。
足の裏は飛び上がるほど痛かったので、それも最初は躊躇して居たが、一向に治らないので結局やって貰った。
計18回やって貰ったが、大して効果は無かった。
その後、皮膚科の診療所に行って薬草と軟膏を貰った。
薬草の液に足を暫く浸けて置くと言うものだった。
最初の頃は気持ち良くて、効いてるかなと言う感じだったが、結局余り効果は無かった。
その後はアイスノンを足の裏にガムテープで巻いてるので、凍傷に成る心配も有ったので、冷湿布は止めて、唐辛子軟膏を塗る様に成った。
ヒリヒリするが、その後が気持ち良い。
その後は日にち薬で、最初は車椅子でデパートに行って居たが、杖を突いて歩ける様に成った。
そしてプールにも行く様に成り、水の中で歩行訓練をした。
2019年の3月からもう5年に成るが、痺れの方は未だに有る。
痛みの方は偶にピリッとする程度に成った。
最初の1年は自殺したく成るほど痛みも激しかったが、今では自殺しなくて良かったと思って居る。
放射能の半減期の様に、死ぬまでには低減して行くだろう。



今日もいつもの喫茶店はお休みだろうと思って覗いたらやって居た。
敷地内の排水管工事が終わって居た。
裏に貸家が有る。
多角経営だ。
屋根の有る駐車部分が満車だったので、東屋の敷シートを貸して貰って車に被せた。
「今、工事人が食事中なので…」とか訳の分からない弁解をして居た。
やっぱりいつもの喫茶店が落ち着く。
いつものメロンスムージーもいい。
後で考えたら結構我儘な事を言った様な。
我儘な事も言える良い喫茶店だ。
「日本人は偉そうに」と思ったかも知れない。
つい、日本人気質が出てしまう。
「日本なら有り得ない」
「日本なら工事人より客を優先するだろう」と。
まだまだ修行が足りない?


今日の朝食


さて、今夜はシューマイ。
いつも美味しい料理をありがとう。

追記(その5)(自叙伝補足)ー帯状疱疹後神経痛ー

歳を取れば肩が痛く成ったり、腰が痛く成ったり、はたまた痛風に成ったりと、体のあちこちに不具合が生じるのも致し方無いものだが、初期症状が出ても全く予想も付かない病気で在ったり、長く生きてる割に知らない病気だったりして、手遅れに成る事も在るものだ。
私の場合は帯状疱疹と言う病気に罹り、その病気を全く知らなかったので治療が手遅れと成り、帯状疱疹後神経痛と言う不治の病と成った。
帯状疱疹と言うのは子供の頃、水ぼうそうに罹った人が、水ぼうそうが治った後もウィルスが死ぬ事無く体の中に残り、それが老年と共に抵抗力が衰えた時に発症する病気。
そして、それは近年若い人でもストレスの蓄積などに依り発症する事が増えて居るそうだ。
帯状疱疹自体は激痛を伴う場合で在っても、治療が適切で在れば問題無く完治すると言われて居る。
唯、初期症状は人に依り千差万別で、激しい時ほど医者に駆け込むので早期治療が行われて事無きを得るのだが、逆に余り激しく無い場合は医者に行くのが遅れて取返しの付かない事に成る。
初期症状は顔や腕、そして腹や背中など、人に依って様々で、しかも単なる痒みや赤身または水膨れなど、他の病気と勘違いして手遅れに成る人も多い様だ。
特徴は体の左右片側だけに現れると言う事。
私の場合は最初、腰痛として現れ、接骨医に駆け込んだところ、それなりの治療を施され、症状は軽く成らなかったものの、続けて其の医院に行き、手遅れと成った。
腰痛の3日目に左足に赤い発疹が出て来て、妻がスマホで調べて帯状疱疹では無いかと言ってくれたのだが、私はその病を軽く見て居た。
それで其の接骨医も帯状疱疹の疑いも有ると言って居たので、再び其の医院を訪れた。
てっきり其の治療法を知って居ると思ったのだ。
ところが実際には其の医者は適切な処方を知らずに別の薬を処方したと言う訳だ。
本来、皮膚科に行って居れば適切な処方をされたはずなのだが…。
必要だったのは「アシクロビル」と言う水ぼうそうウィルスに効く抗ウィルス剤。
薬局にも売って居る。
その抗ウィルス剤を赤い発疹の発症後3日以内に服用しなければ、ウィルスが増殖して間に合わないとされて居る。
その後、私は大変な苦痛と共に生きる事に成るのだが、その病の恐ろしさを知ったのは、ずっと先に成ってからだった。
つまり、帯状疱疹から帯状疱疹後神経痛へと進んでしまった。
その内治るだろうと思って居たが、既に手遅れだった。
あの時、病院に行って居ればと思う事しきり。
元はと言えば、言葉の通じないタイの病院は敷居が高いと言う事だ。
インフォームドコンセントの進んで無いタイの医療界にも良い印象は持って居なかった。
これが日本なら直ぐにでも町医者に掛かっただろう。


(つづく)



さて、今日もいつもの喫茶店が休みなので昨日の喫茶店に行ったら、何と其処も休み。
仕方が無いので近くのいつものプールに行った。
久し振りに行くと少しだけ前より冷たさがましに成って居た。
唇を水に浸けながら水の中を歩くと、回りの木々の緑が目に入り、つくづく幸せに思う。
水の吹き出し口に近づくと何か魚の腐った様な匂いがした。
唯、それが何故か海の匂いを思わせ、逆に嬉しかった。
本当に毎日こんな環境でいいのだろうか。
僅か70バーツ(≒280円)。

知らぬ間に2時間が過ぎて居た。



その後、輸入食品店で冷凍うどんを2種類買い、MAKROスーパーでも違う会社の冷凍うどんを買った。
そしてお気に入りの市場にも寄ってタイメロンを購入。



冷凍物を家に置いて近所の新しい喫茶店へ。



今朝はどう言う風の吹き回しか、妻がパンを焼いてくれた。


唯、昼に少し腹が減ったので味噌汁。


さて、今夜は豚ステーキ。
いつも美味しい料理をありがとう。

追記(その4)(自叙伝補足)ー日本人会の頃ー


明るい話と言うほどでは無いが、私が日本人会の会長に成った頃の話。
入会1年目くらいで会長に成ってしまった。
移住後2年目くらいの話だ。
毎年11月に領事館主導のランナージープン交流祭と言うのが有って、会としては初めて「日泰ゴルフ大会」をした。
日本人側が足りないのでチェンマイの日本人にも来て貰って盛大に行われた。
チェンマイ総領事を始め、チェンライ県副知事、観光スポーツ省同県所長、警察副署長などもご参加頂き、日本人スタッフなどを併せ総勢120名を超えた。
会場では空手や餅つき、アカ族の餅つき、民族ダンスなども交えての懇親会。
それ以外の交流祭としては、講師(元JICAシニアボランティア)を招いて小学校でそろばん体験学習。
翌年度には公立病院前通りの西方1キロで日曜歩行者天国を開始すると言うので、餅つきや剣道・空手のパフォーマンス。
開始月の8月には毎週やった。
流石に疲れたので翌月からは月イチ。
生バンド演奏は最高に盛り上がった。
それで日本人会の知名度も少し上がった。
米国人会などは少数なのか打てなかった。
翌年にはチェンマイ総領事館がチェンライのデパートで日本から太鼓と三味線奏者を招いて演奏会をすると言うので共催した。
共催と言っても市内にポスターを貼った位だが…。
最初に総領事がタイ語で挨拶をすると言うので2番目の私も英語で書いたタイ語の挨拶文を読み上げた。
その次はチェンライ県の副知事。
凄く緊張して膝が震えた。
何しろタイ人の聴衆の前でタイ語で挨拶と言うのは初めてだった。
いや、それが最初で最後。
タイ人の司会者からは「タイ語が上手」と褒められた(お上手?)。
(いや、本当はナーラック「可愛い」と言われた。声が可愛いのか顔が可愛いのかどうでも良いが…。)
総領事も我が家に招いた時、「タイ語が上手いから文字を覚えろ」と言われた。
そして「私は公邸で畑仕事をしてるから君も庭に畑を作れ」と。
歩行者天国では皆で日本料理を売ったり…。
あの頃が一番楽しかった。
今もその通りに在るホコテン実行委員長のレストランの前を通る度に思い出す。
其処で水掛け祭りの時は水桶を借りて水掛けもした。
その通りは毎年水掛け通りとして盛り上がる。
その通りには日本人のラーメン屋が以前在って、其処でも水掛けをした。
今と成っては全てが懐かしい。
今年も水掛け祭りの日が近付いて居る。
さて、今年は年寄りの冷や水と成るのか。
いや、プールで大人しく浸かってる方が良いだろう。
喫茶店を出ると、もう真夏だ!



今日の朝食


さて、今夜は冷うどん。
いつも美味しい料理をありがとう。