チェンライの日々

タイ(チェンライ)に住んで15年。日々の暮らしを綴ります。

闘病生活四日目

毎日、痛みと苦痛の感情に支配されて居て、
何を書くにしてもその意識からは逃れられ無い。
だから今日は、存在が意識を決定すると言う哲学の話と、
島崎敏樹の「感情の世界」を参考にして、話を進めようと思う。
存在が意識を決定すると言う思想は、常日頃から私が拠って立つ唯物論的立場だが、
島崎敏樹の「感情の世界」は、単に走り読みで、
私の好きな言葉だけが記憶に残って居るもので、
いささか不十分だが、お許しを頂きたい。
さて、常に痛さに晒されて居ると、
自ずと考える事は、如何にしてこの苦痛から逃れるかと言う事ばかり考えてしまうが、
どんなに考えたところで、そんなに簡単に逃れられる訳が無い。
何しろ薬の成分にモルヒネの10分の1の鎮痛効力の有るものも有り、
心頭滅却すれば収まるなんて簡単なものでは無い。
ここは一つ腹を括って、今までの己の大罪の報いとして、
心新たに出直す機会とするくらいの気持ちが必要だろう。
若しそれが出来ないなら、野戦病院でモルヒネなしで手術をする事を思えば、
多少の気休めにはなるだろう。
ところで、スウェットパジャマだけでは左足が寒いと言ったら、
デパートに新しく出来たユニクロでパッチを妻が早速買って来てくれた。
790バーツ(約2、800円)。
品揃えが少ないせいか、結構高い買い物になった。
そして、お手伝いさんは、いつもフルーツを剥いて冷蔵庫に入れて置いてくれる。
正に至れり尽くせりの状態で、
それこそ島崎敏樹の言う「まどろみ」の幸福の世界のように見えるが、
野戦病院の譬えのようなものは、心理学では「あのブドウは酸っぱい」と言って諦める合理化機制で、
存在が意識を決定すると言う哲理を表現したものでは無い。
至れり尽くせりのまどろみの世界で、あのブドウは酸っぱいと言って、空想するのでは無く、
存在が意識を決定すると言う哲理を無理やり表現するとするなら、

例えば日本で、金も無く、孤独で寒さに震えて居たら、どう言う想いになるだろう。
それこそひもじさで、それどころでは無いか、或いは痛みも倍増するか分からないが、
兎に角、今とは全く違った意識になってるはずだ。
結局何の足しにもならない結論だが、
こんな事をうだうだ考えて一日が過ごせると言うのは、幸せだと言うところで、幕にしたい。