党の体質とGHQ
戦前は党幹部の変節や稚拙さが有った。
それまでは党の歴史も浅く、組織的にも未成熟な面が多々有った。
何よりソ連からの指導に頼って居た。
そして日本での確固とした熟成に至る前に戦時に突入した。
幼稚な組織論で有ったが故に、特高の前に脆くも崩れ去った。
戦後は紆余曲折を経ながらも、牢獄で転向しなかった数少ない宮本同志が党を立て直して行ったのだが、そもそも理論的水準が高かった訳では無い。
単に変節しなかったと言う事を持って、必要以上に英雄視された。
理論的水準の低さ故、その後様々な問題を抱える事と成る。
まず後継者選びに問題が有った。
理論的水準が高かった不破哲三に自己批判を迫り、それと引き換えに後継者とした。
不破哲三は自己批判を呑む事に依って、その後の問題を内包する事に成る。
彼もまた正常な選挙では無く、恣意的に後継者を選ぶ事と成った。
当然の事ながら後継者の理論的水準は低い。
その矛盾は当然の事ながら現指導者にも至って居る。
ソ連が核実験をした際、あらゆる実験に反対するのは米国の利益を擁護する事に成るなどと誤った主張をし、その後訂正したが、未だに「我々は一貫して反対して来た」などと詭弁を弄して居る。
また、松竹氏が指導者は公選制にすべきだと主張したら、反党・分裂主義者だと言って除名した。
公選制に無理が有るとしても、除名はオカシイ。
一つには今の専従制に問題が有る。
専従は党から給与が支給され、反対意見が言い難い。
一定の専従者は必要だが、もっと大幅にそれ以外の者を登用すべき。
労働運動で闘って来た者と専従者との理論的水準が余りにも違い過ぎる。
そんな専従に囲まれて育った幹部の中には、「自衛隊は暴力装置」などと教条主義的で世間知らずな事を平気で言う者も現れ、未だに幹部で居る。
私が党の誤りに気付き難かった原因の一つに、組合活動の幹部には党の幹部も多く、大企業本位の自民党府政と対峙しながら、府民と共に歩み、政党支持の自由を尊重する組合路線の素晴らしさを思う時、党の誤りに目を背け勝ちだったと言う事が有る。
そして、党の課題と組合の課題に休む暇も無く追われて居たと言う言い訳も有る。
公務員としての仕事も人並みにこなした。
最後の職場ではビルメンテナンスや紺綬褒章など36種類もの仕事を抱えて居た。
どの仕事が何処まで進捗して居るかを全てパソコンに記録して居たので、退職時の引継ぎも無難に終わった。
それを見れば1年の内でどう言う時期に何をすべきか、また、どの様にすべきかも記録して有ったので、後任者は助かっただろう。
自画自賛はこれ位にして、今はGHQに引かれた自虐史観で過ごした日々を大変悔やんで居る。
小学校は湯川秀樹の卒業した学校で、講堂にはその掲示が有った。
図書室にソ連の本が置いて在った様に、後で分かった事だが、党員が多かった。
私を3年間担任してくれた恩師は幸いアカでは無かった。
同窓会で京都教職員組合の書記長に成った者が居たが、彼が恩師と口論をして居たと言うのを後で聞いた。
恩師の教えは「正直・努力」
同窓生全員がその教えに感謝してると言って居た。
私は結婚式の時に恩師が退職して神戸の垂水区から遥々祝辞に駆け付けてくれた。
私は大層可愛がられたのだ。
2年生の時には肩車をして廊下を歩いて貰った事も覚えて居る。
さて、自虐史観の話だが、アメリカは日本が再びアメリカに歯向かわない様に、あらゆる制度設計をした。
農地解放で零細小作農を増やし、財政法4条で戦費国債の発行を出来なくし、財閥解体で軍需産業を破壊し、教育勅語の廃止で神話や天皇制から遠ざけ、日本の成り立ちに目を覆わせた。
また殊更にへつらう憲法を制定し、ウクライナの人が聞いたら驚く他力本願の平和論を押し付けた。
憲法は国会で審議したから国民が作ったのだと共産党から教えられた。
お人好しにも程が有る。
日本が単なる侵略戦争をしたのでは無い事は、戦後のアジアの国々が独立して行った事を見ても明らかだ。
これが偶然で無い事は、中東やアフリカが未だに内紛して居る事の証左だ。
今日はこれまで。
今日の朝食
今夜は冷やし中華。
いつも美味しい料理をありがとう。

