チェンライの日々

タイ(チェンライ)に住んで15年。日々の暮らしを綴ります。

そもそも結婚とは

そもそも結婚とは、いや、夫婦とは何だろうか。
私が今後生き続けて往く上で、連れ合い無しの生活と言うのは考えられないし、
今迄の人生に於いても、彼女と生きて来た日々を思うと、
独身だった時代と比べて、格段の違いが有ったと思わずには居られない。


しかるに此のチェンライに於いては、独身の人も結構多い。
私は偶々だったのか、必然だったのかも含めて、
此の命題については、いずれじっくり考えたいと思って居た。


しかし、此の命題は、そんなに簡単には結論を出せるものでは無いと言う事は、
覚悟はして居る。


是は、そもそも家族とは何かから始まって、マルクスの盟友エンゲルスの著作
「家族、私有財産及び国家の起源」を参考にせずば、
深く掘り下げた結論は導き出され無いと思って居る。


その為にも、其の参考文献のL.H.モーガンの「古代社会」は言うに及ばず、
ダーウィンの「種の起源」すらも研究しなければならないとも思って居る。
そして幸いこれらの書物は私の手元に有り、読む時間も有ることは有る。


しかも、日本共産党の前委員長の不破哲三の「起源」の入門書も有る。


そこで、これらの書物を読む前に、今の段階での私の考えを此処に記して置き、
後で見直して、自分の辿った思考を振り返る楽しみも残して置きたいと言う
贅沢な欲望に駆られて、取り敢えず此の題名で一筆したためて置こうと思った。


前置きが長くなったが、忌憚の無いご意見を頂き、今後の研究の参考にしたいと
思いますので、宜しくお願い致します。



そもそも「結婚」とは、その前提として、雄と雌の結びつきが有り、
それは、原始社会に於いては同棲で在ったと思われる。


その段階での結び付きは、「愛着」によるもので、
それが結婚と言う社会的認知の形態を取る様になったのは、
私有財産が発生してからでは無いかと思われる。


狩猟採集の時代には、剰余物の発生する余裕が無く、
農耕時代になって発生した剰余物を相続すると言う事が生じた。


そして、その相続者の父は特定が難しく、母の方が確実であるから、
或いは、父と子より母と子の絆の方が強かったから母系制社会になった。


これにはいささか疑念も残る。
愛着によるペアの関係が、それ程脆弱だったのかと言う疑念と、
剰余物の保管が家族単位では無く、集団の長では無かったのか。
そして、族長はどうして我が子に相続させたいと思う様になったのか。


愛着によるペアの関係が脆弱だと思われるのは、
タイ社会を見ても考えさせられる。
タイの男性は、妻が孕めば直ぐに逃げるからである。
是は本能的なもので、倫理観だけでは説明が困難な面も有る。
勿論そうで無い男性も居る。


だからと言って、原始時代のペアの関係が全て脆弱だとは思えない。
夫婦で子供を育てると言うパターンの方が多かったのではないか。
燕でさえそうして居る。


ニホンザルの様に、一夫多妻の時代は無かったのか。
一夫多妻と言うのは、必ずしも強い種を残すと言う事にはならなかったのではないか。
安定性と言う面でも弱点が有ったし、とても協力的な社会では無い。
より大きな困難に打ち勝つ事も出来無かっただろう。


それで人類は、平和的な一夫一婦制を選択したのではないか。
そして、族長は共同体としての生産手段は確保しながらも、
備蓄は家族単位で行なわれた。


そして、集団の肥大化と共に、部族間で争いが生じる様になり、
腕力に勝る雄が父権制に目覚め、革命的に父権制に移行した。


そこで男性優位の差別社会が生じ、権力は男の本分となった。
そして、現代でも男の経済的、政治的優位が保たれたまま、
婚姻に於いても、男が女を搾取し、女は経済的奴隷となって居る。


つまり、現代社会に於いては、純粋な恋愛感情よりも、
経済的に優位な男性が、女性を養う事が本質的に有り、
経済的に自立した女性は、婚姻を望み難くなって居る。


唯、純粋な恋愛感情のみの夫婦が無い訳では無く、
この本質を理解し合い、夫婦関係を継続して居る夫婦も在る。
或いは、片方が理解して無くとも、継続して居る夫婦も在る。

(これは私のことだ。)



昨日の朝食 赤出しぶっ掛けご飯と茶碗蒸し


昨日の昼食 サッポロ一番醤油ラーメン


昨日の夕食 豚カツ&ハンバーグ