チェンライの日々

タイ(チェンライ)に住んで15年。日々の暮らしを綴ります。

兄のこと

小さい頃の記憶に、電車のホームで、兄に隠れられて泣きそうになった事とか、歌声喫茶に連れて行って貰った事とかが有る。
兄は大変歌が上手かった。
大きくなってからも、例えば、結婚式の披露宴で、兄が素で歌うと、皆がやんやと褒めて居た記憶が有る。
兄は大学にも行かず、その頃は未だ余り皆が大学に行く時代では無かったが、早くから働いた。
最初は家で果物屋をやった。
京都の中央卸し売り市場まで、朝早く行って仕入れて居たと後で聞かされた。
車も無かったから、リヤカーで6キロも毎朝往復して居たんだろうか。
商売の難しさを経験した様だ。
その後、父の勤めて居る火災保険会社に入った。
そこでも、学歴の有る他の人達との競争に苦労して居た様に、子供心に記憶して居る。
そして、何年も経って、営業支店の支店長になったりして、優秀な人材だとの評価を得て居たと思う。
晩年になって、何故か選挙の応援をする様になり、敗北の責任を取らされたのか、或いは進んでなのかは分からないが、途中で会社を辞めて、地方都市でスナックをやり始めた。
素人なので、相当苦労したと思う。
客の相手もした。
いつか歯の治療をした時、そこからばい菌が入り、酒の相手もかなりしたせいで、食堂癌になった。
そこからは坂道を転がり落ちる様に、死へと向かって行った。
酒の相手もかなりしたせいで、アル中にもなって居た。
未だ元気だった頃、私の結婚式に父親代わりに挨拶をしてくれたが、ビックリするほどスピーチが上手く、流石会社で一目を置かれて居た
だけのことはあると感心したものだ。
実は、兄のことは煙たかった。
もっと自分を頼って来いと言う気持ちが、返って私の気持ちを遠ざけてしまった。
余り近づかないので、怒ったりした。
今から思うと、全て私の若気の至りだったと思う。
もっと兄になついて、頼れば良かった。


兄の遺影を見る度に、申し訳無いと言う気持ちと共に、

幼い頃の兄の記憶が懐かしく蘇える。



父と母と三人で謡曲の練習