チェンライの日々

タイ(チェンライ)に住んで15年。日々の暮らしを綴ります。

そもそも何故タイか(其の2)

タイに行くようになってから、韓国に2度行ったことがある。
済州島と釜山。
1週間の休みが取れない時は、2泊3日の旅行ではタイに行く気になれなかった。
タイに行くのに2泊3日はあまりにも短すぎるからだ。
気分のリフレッシュのため、止むを得ず韓国を選んだ。
済州島は、何も無いところだが、牧歌的で、韓国人のハネムーンの人気地と言うことだった。
それなりにくつろげた。
釜山は、漁港と言うせいもあってか、大阪のような雰囲気だった。
それでも、焼き肉やキムチを食べるとやっぱり韓国に来て居ると言う実感がした。
しかしながら、果物や野菜は日本と殆ど変らない。
おまけに冬に行ったので、日本と同じ様に寒かった。
日本とあまり変わり映えがしなかった。
言葉は、お年寄りは結構日本語を知っていた。
それだけ日本が侵略していたと言うことだ。
兵隊さんから習ったと言っていた。
韓国は私にとって、あまり変わり映えのしない、即ち、気分転換にもならない国だった。
タイのエキゾチックが随分恋しく思えたものだ。
その頃、私は植物園に勤めていて、変則勤務で、3日休めば、1週間の連続の休みとなる職場だった。
土日開園のため、土日勤務の翌週は月火が休みとなり、水木金と休めば7日連続の休みとなる。
つまり、3日勤務と7日勤務の週が交互にやって来るのだ。
だから、もし、3日休める場合は1週間の休みとなり、タイに行くにはうってつけだった。
そこに5年間勤務した。

多い年は、年に5-6回、1週間のタイ行きだった。
しかも、ゴールデンウィークや年末年始はもっと長期になった。
訪問地をチェンマイからチェンライに変えると、チェンライはずっと牧歌的即ち田舎で、いまでこそ、メーサイのイミグレはりっぱな塔が建っているが、当時は交番に毛の生えたようなものだった。
そして、チェンライ空港は、その田舎のイミグレのような建物だった。

両側に金網のある玄関から入って、そのまま歩いて飛行機に乗った。
その旧飛行場から街には、1キロほどだったが、玄関にはトゥクトゥクも無く、いつもカバンを持って歩いて街まで行かなければならなかった。

当時、私は何故か、安宿探しに奔走していた。
少しでも安いホテルを必死で探し回っていた。
今から考えるとどうしてそんなにケチらなければならなかったのか。
当然物価は日本の比では無かった。
暫くして、新空港が出来た。
空港には、いつもタクシーが停まっていた。
初めて乗ったタクシーの運転手がジョギングをする人だった。
当時、私は、気候のいいチェンライの地で、ジョギングを日課にしていた。
話が合い、友人になった。
空港に着いた時は、いつも彼の車に乗るようになった。
そして、毎日同じコースをジョギングしていると、彼も走りに来るのだった。
何年かして、彼に女の子を紹介して貰った。
最初に彼女の家に行った時、初めて見た彼女の姿は丁度、雨上がりの戸を開けているところだった。
凄く大人しい。声が柔らかい。と言うのが第一印象だった。