チェンライの日々

タイ(チェンライ)に住んで15年。日々の暮らしを綴ります。

府税事務所から保健所へ(自叙伝)

(昨日のつづき)


次の勤務場所は田舎の保健所だった。
狭くて急峻な峠を二つ越えて行くので車を買い換えた。
お陰で首が痛く成ったが、異動すると直ぐ治った。
やっぱり通勤のせいだと分かった。
他の峠を峠とも思わなく成った。
今はそれぞれ京都市と南丹市に統合されてる京北町と美山町が管轄。

40分掛って着くと、其処は別天地だった。
昼休みは山の中に入って自然と触れ合えた。
唯、残業は憂鬱だった。
残業後の帰宅が辛かった。
差し押さえ担当から障害者担当に成った。
身体障害者、知的障害者、精神障害者の担当だ。
町からの障害者手帳の進達や断酒会の開催、共同作業所の視察。
此処でも進達先の本庁の担当者や町の担当者はベテランで、手帳の申請に不備が有ると本庁から叱られた。
珍しい障害者補助金の申請が出て来た時はびくびくした。
当時それほど一般的では無かった多動児補助の申請だった。
複雑怪奇なマニュアルは有ったが、本当に当て嵌まってるか半信半疑だった。
町の担当者も初めてのケースで不安だったろう。
それから町の障害者スポーツ大会の視察。
妻を呼んで一緒に弁当を食べた。
その他には管轄内での献血活動や被爆者援護も担当した。
広島からの移住者が1人居た。
献血活動はのぼりを立てて、選挙の街頭宣伝の雰囲気も在った。
勿論、本庁の薬務課が献血カーでやって来た。
ところで上司の保健課長は元保健婦長で、町の講演会などでは立て板に水の雄弁な人だった。
町民からは「婦長さん、婦長さん」と慕われて居た。
次長からは行政能力が無いと揶揄されて居た。
保健師達は8020運動を展開して居た。
(80歳時に自分の歯を20本残す事)
組合では異動後直ぐ分会長をやった。
折からの統廃合の嵐で1年後に大きな保健所の出張所に成り、2年後に統合された。
1年後は統合との噂が有ったが出張所として残ったので、「周山保健所に倣え!」と言う運動に成った。
今は建物だけ残って居る。
分会旗は今も我が家に有る。
統合時の事務引き継ぎは大変だった。
3月31日までの勤務内容を引き継ぎ書に書いて段ボール詰めしなければならない。
誰か来客が有ったらその事も書き留めて置かねば成らない。
町や本庁は遠慮して電話して来なかった。
4月1日は次の職場に行くのだ。
行政は継続が大事だから一言一句も引き継がねば成らない。
残業はしたものの、完全なものと成ったかどうかの記憶は無い。
通常の異動なら前任者に電話で聞けば良いが、引継書等全ての文書は暫く段ボール詰めの侭だ。


次の勤務地は家の近所の資料館に成った。
前の保健所と比べたら残業は全く怖くない。
土日は交代制で庶務課は1人に成るので、弁当はいつも妻が自転車で届けてくれた。
いつも保安の人に冷やかされた。
最初は経理係だったが、「執行体制の為なら異動しても良い」と書いたら庶務係に異動に成った。
職場の書記長だったので、まさか中枢に異動するとは思って無かった。
ビル管理を委託してる館内技師と連絡を取ったり、職員の健康管理記録や健診なども担当。
年に一度レントゲン車が来るので、館内に様々な臨時健診室を設定。
その他には館で保管してる美術品を京都文化博物館で展示する際の受け渡しや紺綬褒章の進達。
被受章者を文博の学芸員が文部省に内諾を得て申請して来るが、被受章者の犯罪履歴を府警に照会。
重文の資料なども書庫に有るので職員以外は入れないが、普段職員も入らない保管庫には美術品が。
迷路の様で保安員の案内が無いと迷子に。
消防署の点検の際はマズい物が廊下に有る時は保安と一緒に隠す。
そう言えば退職後タイに来てくれる小学校の同窓生がその消防署の副司令だった。
年に一度の煙探知機や熱探知機、スプリンクラーの業者点検も保安に案内して貰う。
その他諸々併せて36種の担当をして居た。
どこまで進んだか覚えて居れないので、都度パソコンに進捗状況を記入した。
それをそっくり其のまま後任者に渡した。
仕事の様子がよく分かっただろう。
中身は殆ど覚えて無いが担当数だけは覚えて居る。
そう言えば書庫の古い給水管が破れて職員総出でバケツリレーした事が有る。
そもそも何故剝き出しの給水管が書庫内を通って居たのかも不思議。
一旦落ち着いたところで、普段大人しい館長が気の強い次長と口論して居た。
逆に下水の排水管が詰まる事はよく有った。
保安で手に負えない時は業者を呼んだ。
書記長をして居たので当局交渉もしたが、当局からは「貴方も苦しい立場だネ」と皮肉を言われた。
自分が回答の一部を担う部分も在ったのだ。
(分かって居て要求書を書いた。)
「赤旗」を次長に配ったりして居たので、まさか庶務係に異動するとは思って無かった。
選挙の時は資料館近くの駅頭で朝ビラをして居て上司や同僚に渡したらびっくりされた。
或る上司との折り合いが悪く、また酷いプログラムの電子決裁が導入されたりで、58で退職した。
退職時の挨拶はコップクンマークカップ、チョークディーカップと言う言葉で締めた。
新任の館長は「資料館の職員は多士済々だ」と驚いて居た。(現館長も定年退職)
退職後、資料館をガラス張りのデザインに建て替えると言うニュースを見たが、飛んでも無い事だ。
火事に弱いし、防犯上も問題が有る。
本庁の考える事は非常識だ。
唯、その案は撤回された様だ。
昔の資料館から少し離れた場所に移転されたが、タイに居ても何か寂しさを感じる。
まるで母校が廃校に成った様な…。
資料館の建物は昭和38年建築で老朽化して居たが、出来れば同じ場所に建て直して欲しかった。
唯、二度も書籍を移転するのは大変だ。


(つづく)



今日も喫茶店の後プールに行ったが、2時で凄く暑い。
それで水に入ると心臓マヒに成りそうな位冷たいのを頑張って入った。
暫くすると慣れて来る。
1時間ほどして上がると体が冷え切って居る。
休憩室を覗くとコンセントが有るので此処でパソコンを使えそうだ。
窓は閉まって無いので暑い筈だが体が冷え切ってるので全然暑く無い。
此処でもパソコンを打つと1日中ブログを書く事に成る。
プールでも体力を消耗する筈だし、頭脳労働でもエネルギーは消耗する筈だ。
それで食欲が増す事に成る。
良い様な悪い様な…。
まあ、ボケ防止には繋がるから良しとするか。



今日の朝食


さて、今夜は麻婆豆腐丼。
いつも美味しい料理をありがとう。

教育委員会から知事部局へ(自叙伝)

(昨日のつづき)


異動希望を出して置いたら次の異動先は植物園だった。
何故教育委員会から知事部局に成ったのかは分からない。
教育委員会と知事部局との人事交流は少ないのだ。
本庁に異動後、組合役員はしなかったが、教育委員会から植物園に変わると分会長兼支部書記次長に。
植物園の職場は組合については素人ばかりで、私が分会長をやるしかなかった。
それと支部の書記長が当該支部は役員の成り手が無く、会計担当の書記次長をしてくれとの事だった。
植物園では知事選の時は植物園に割り当てられた全戸ビラ配布700戸分を週2回1人で配った。
700戸は1日では撒けないので、結局毎日全戸配布をして居た。
サボると次のビラが来るので大変だった。
当時のビラは分厚く、100枚持てばメチャ重かった。
家の近所だったので100枚配れば家に取りに帰った。
実は植物園も家から近かった。
選挙の時は園の近くの選挙事務所に早くから泊り込んだ。
夕食だけ家に帰った。
異動1年後、温室や植物園会館の建て替えなど園内の大改築の時期に当たった。
職場改善要求なども先頭に立って交渉した。
経理係の仕事も係長が長期病休で予算要求書などは私が作成した。
大幅にサバを読んで本庁から雷が落ちた事も有る。
電話で怒鳴られた。
今ならパワハラで訴えてやるのだが…。
園は清掃を管理委託して居たのだが、毎年同じ業者が落札するのでおかしいと思い、予定価格を或る業者にバラした。
するとその業者が酒場で同業者に自慢したらしくバレてしまったので、後日上司から詰問されたがしらばっくれた。
今から考えても上司がいつもの業者に教えて談合して居たとしか考えられない。
それと植物園会館に入った食堂業者の料理が高いと言ったら自民党の伊吹文明が文句を言って来た。
また、本庁が1億円の立派な屋外トイレを建てると言うので反対した。
屋外トイレは必要だが1億円は高すぎる。
一方では通常の肥料代などを年々削り、自民党の京都府政は府民と職員の敵だと思った。
5年が経って異動しろと言われた。
組合役員をやって居るので不当配転だと言って、辞令を受け取らなかった。
だが、園長が泣いて頼むので可愛そうに成り、辞令は受け取らずに異動した。
目の前で破ってやろうかとも思ったが大人げ無いので辞めて置いた。
実は植物園は交代勤務で土日出勤の翌月火は休みに成るので、翌水木金勤務後また休み。
従って其の週の水木金を休めば1週間休みと成るのでタイに旅行出来た。
唯、予め水木金の年休は認められ無いので、風邪だと言って休んだら叱られた。
何しろ真っ黒に日焼けしてたからバレバレだったのだ。
それで結局タイ行きは退職まで通算100回を超える。
已む無く異動した先が府税だった。
今まで税の事など全く知らなかったのにいきなり滞納者相手の仕事。
税の事など知らないのに滞納金を払えと電話した。
すると相手も弱みが有るので、税の文句は言わずに、兎に角「待ってくれ」だった。
それも殆どが嘘で、いや、その時は本心だったかも知れないが、結局払わない。
何しろ今まで何度も催告状を送られても払わない人達だからほぼ確信犯。
そう言う人達ばかり相手にする係だった。
中には息子の不始末は私の責任と言って払うお婆さんも居た。
そう言う人は大概貧乏だから毎月何千円の分納だった。
中には「差し押さえ予告」を送ると、怒って事務所に怒鳴り込んで来る人も居た。
連絡が付かないか、或いは無しのつぶての場合は家に行ってメーターを見た。
冷蔵庫が有ると僅かにメーターが回って居る。
或る時は刺青の人が出て来る時も在った。
本当のヤクザは手を上げない。
住民票を残したまま移転してる場合も有った。
子供が居たら住民票を移転しないと転校出来ない。
徴税吏員のカードを見せれば区役所のカウンターに入って行って、住民票の閲覧が出来た。
「徴税吏員」と赤字で太く書かれたカードだ。
府税事務所長の印は有ったが写真の添付は無かった。
私の顔は徴税吏員そのものだったんだろうか。
法務局でも銀行でも府税事務所長印押印のA4の調書1枚が有れば何でも閲覧出来る。
8年間の納税担当の間に一度課税課の特別地方消費税担当に成った事が有る。
昔の料理飲食税が変更されたもので、5千円を超える食事等をした場合に一割加算される。
東府税事務所の時だったので担当は祇園のスナックだった。
客から預かった税を店が後で自主納付するもので、課税課としてはその申告を促すのが仕事。
当時はバブルが弾けて赤字経営が多く、中々申告して来なかった。
電話で督促もするのだが、私の電話を聞いて居た先輩は私の話は表面的で中身が無いと言われた。
先輩の電話は成る程、申告しようと言う気持ちにさせるものだった。
だが電話では中々申告が進まないので月一で夜回りが有った。
皆で夕食後一斉に回るのだ。
2人一組でそれぞれの担当を回った。
1人400件抱えて居て、一夜で自分の担当分は10件ほどしか回れ無い。
行くと店はガラガラで、「税金を払う金が無いので飲んで行って下さい」と言われた。
勿論、冗談だったが半分本音でも在った。
再び納税課に戻ったが、晩年は経済状況も厳しく、「差し押さえ予告」を送っても無反応だった。
それでほぼ毎日差し押さえ状態に成った。
それが嫌に成ってまた異動希望を出した。
嘘ばかり吐かれて居ると、顔を見ただけで人が分かる様に成った。
人間の負の部分を十分見た気がした。


(つづく)



追伸


今朝は7時に目が開いて外灯を消して回り、また寝床に入ってYOUTUBEを見た。
そしてまた寝入ってしまい、妻の呼ぶ声が。
「ご飯出来た!」
見ると9時前に成って居た。
もう少し寝かせてくれたら良いのに。
いつも私がご飯と言ってから用意してくれたら良いのに…。
しかし考えて見れば有難い事だ。
独身ならこうも行かないと思い、ふらふらと食卓へ。
チェンライには独身男性もまま居る。
彼らは自炊するか食べに行くかしてるのだろう。
独身は気楽でいいが、私は尻に敷かれてもかかあ天下で良い。


今日の朝食


さて、今夜は和定食。
いつも美味しい料理をありがとう。

本庁での仕事(自叙伝)


(昨日のつづき)


本庁では総務課調査広報係の調査担当で「学校基本調査」の内の「卒業後の状況調査」を担当した。
京都市立を除く府内の全公立小中高の事務員を集めて、調査の説明会などもした。
元の職場の懐かしい先輩事務員の顔も在った。
説明会にはいつも京都市の担当者も臨席して親しく成った。
(京都府は政令指定都市である京都市以外を管轄する。

但し、府立高校と市立高校は市内に混在する。)
左手で電卓を打つ様に成ったのも彼らに感化されたからだ。
電卓を見ずに左手で打ち、右手のペンで書いて行く。
高校進学率や大学進学率などを毎年記者発表するのだが、発表前に乙訓の教員組合の書記長にリークした。
すると彼は数字よりも統計本が欲しいと言うので待ち合わせをして渡した。
(もう時効だろう。)
各学校に1冊教務主任などが参考にする貴重な本なのだ。
係の隣室には記者クラブが在り、広報担当が記者の世話をする。
家に咲いた朝顔の植木鉢数鉢を記者クラブに飾った事も有る。
従来、活版印刷だった「卒業後の状況調査報告書」を当時部屋に設置されたてのワープロに打ち込んで作成した。
お陰で目が悪く成った。
「学校基本調査書」の担当者も私の真似をして翌年自分で作成した。
3年も同じ単調な数字ばかりの仕事に飽きて居たら福利課の庶務係に異動に成った。
(まさかリークがバレた訳では有るまい)
教員の共済組合の担当課で京都市立校を除く府内全教職員に「福利きょうと」と言う共済誌を毎月発行した。
そこで広報の楽しさを経験した。
それと毎年、京都国際会館で催す「退職者のつどい」を担当した。
案内状の発送が主な仕事だが、返戻が結構有った。
(私も返戻に成って居るだろう。タイには届く筈が無い。)
テーブルの配置や料理の確認など会館との連絡・調整もした。
知事挨拶や出し物などは課長が差配した。
通常は共済掛金から支出するので課長決裁だが、この事業だけは府費も含まれるので財政課の決裁だった。
中々決裁が下りず、下りたと思ったら「執行協議」と朱書きされて、後はどう成ったかよく覚えて居ない。
また、共済掛け金を共済組合本部に送金するのだが、教員数を元に適当に算出して毎月何億円かを送った。
課長印を押印した支払い伝票を庁内の銀行出張所に持って行くのだが、最初の頃は緊張した。
だが慣れると億の数字も不感症に成った。
本部から額が少ないと偶にお小言を言われた時は、計算間違いだと言って追加した。
(今から思うと、本部でも資金に余裕が無い時は今回は京都にでも言って置けと言う事だったのかも。)
年間で帳尻が合えばいいのだ。
下手な担当者だと思われても、47県も有れば目立たなかったろう。
当時、学校教育課は「ゆとり教育」とかで「西の文部省」と言われたが、福利課は関係無い話だ。
それと各教育局の共済経理を管轄して居た。
仕事は面白かったが人間関係が悪く、2年で異動希望を出した。
息抜きに庁内の生協の顔見知りの担当者に安近短の海外旅行パックを頼んで置いた。
フィリピンのセブ、タイのパタヤ、インドネシアのデンパサールの内、パタヤが取れたと連絡が有った。
初めての海外旅行にして初日に飛行機が整備不良で飛ばなかった。(タイ航空)
大阪のホテルに泊らされた。
怒ってキャンセルした人も居た。
私も4泊5日が3泊4日に成ってガッカリだった。
しかし、バンコクに着くと、其処は終戦直後のバイタリティーと、何処か懐かしい優しさに溢れて居た。
そこでタイに嵌り、それから何度も渡タイを繰り返す事に成る。(その話はまた後日)


(つづく)



追伸


今日は6時半に目が開いて外灯を消して回った後、また寝床へ。
布団を被ってベッド横のパソコンを眺めて居たが怠く成って体を反対向きに。
布団をはだけて寝てると冷たい空気が肌を刺す。
夜中に閉めて居たカーテンを開けたのだ。
妻が起きて来たのでベランダに出ると、彼女は「今日は寒いネ」と。
「何処かで雨が降ってるのよ」と言ったが、私は夜中に晴れてたせいだと思った。


今日も喫茶店の後プールに行ったが、タイの親子連れが来て居た。
頑張って水に浸かったがメチャ冷たい。
タイ人は暑さにも強いが寒さにも強い。
毎日暑い日が続くが、PM2.5のせいで冷たいのだろう。
やっぱり直射日光が差さないと水は温まらないのだ。
陽を見るとボンヤリ霞んで居る。
5時に帰ってベランダの温度計を見ると30度だった。



今日の朝食


さて、今夜は鯖素麺。何でこんなに旨いんだろう。
いつも美味しい料理をありがとう。


京都府に採用(自叙伝)

(昨日のつづき)


ところが採用の内示前に「障害児教育に興味は有りますか?」と電話が有った。
私はびっくりして「普通教育がいいです」と答えた。
すると勤務場所は高校の事務だった。
「これは詐欺だ!」と言って辞めた者も居た。
(現在、募集案内は学校事務は別に成って居る。)
私は辞める勇気など無かったので其のまま勤めた。
職場は縁故採用の人達で封建的だった。
息が詰まりそうだった。
5年耐えた。
教員は私が大卒のせいか可愛がってくれた。
メーデーの後の分厚いビフテキが今も懐かしい。
メーデーには事務所からは私を一から指導してくれた優しいお姉さんの共産党員と私だけ参加した。
(後年、女性党員がまた事務所に異動して来るのだが、私の指導係のお姉さんの私への指導の言動を聞いて、「貴方、何でそんな言い方するの!」と言った。
此処の事務所の厳しい雰囲気に優しいお姉さんも影響されてしまうのだ。
後で来た女性事務員は他の事務員から邪険にされて居た。)
封建的な事務所の人達は教員をバカにして居た。
当時は蜷川民主府政で、元府立高教組委員長が校長に成った。
私は文書受付と窓口担当だったが、或る時、在学証明のハンコを貰いに校長室にノックもせずに入ったら、彼は2中総(第2回中央委員会総会)のリーフを慌てて伏せた。
(何も慌てなくても良いのに、私はシンパだから…と思った。)
それから、何処で聞き付けたのか、バレーの顧問が私にコーチをしろと言って来た。
事務部長がOKしたので引き受けた。
(後年、生徒達は私のクラブに入る事に成る。私の所属して居た市民ルールクラブに。)
バレーのコーチは貴重な私の息抜きだった。
それと学校事務の同期会も作った。
20人ほど居た。(大卒が5人、高卒が15人ほど)
月1でレクリエーションをした。
それも貴重な気分転換だった。
5年辛抱の後、京都府教育委員会の出先機関の教育局に異動に成った。
封建的な職場から解放されて、天国の様に思われた。
小さな教育局だったので管轄地も少ない代わりに職員も少なかった。
それで市や町の教育委員会からの進達を本庁にするのだが、私1人で本庁の学校教育課全ての事務を仲立ちした。
しかも私の隣の職員が2度も産休の間は、本庁の保健体育課、社会教育課、文化財保護課を併せて4課の事務をした。
また市町教育委員会も私が相手をするのは長年同じ事務をして居るベテランで私より遥かに詳しかった。
勿論その間可愛いバイトは1人雇われたが、当然、稟議書は全て私が書いた。
そして毎日机上には決裁後の稟議書が山と積まれた。
(蛇足だがバイトは教員志望の採用待ちの子。決してセクハラはして居ない。だが夢中に成った。)
学校事務から2人異動して来たのだが、ジャンケンで組合役員を決めろと言われた。
ジャンケンに負けた私は職場の分会長(委員長)。
そしてもう1人は支部の執行委員に成った。
支部は同じ地方の他の府の出先機関(土木事務所・保健所・振興局など)で構成されて居た。
2年目は彼と交代して支部委員と成った。
文化スポーツ担当でスポーツはお手のものだった。
支部主催の職場対抗試合もしたが、京都府全体のスポーツ祭典(支部対抗)で弱小支部ながらいきなり3位に。
参加率の参加点で稼いだ。
その翌年も3位。
その翌々年も。
平の執行委員から書記次長に成って、毎週の駅頭ビラの配布も担当したので、仕事中に教育局の輪転機を回した。
指導主事達は何も言わなかったが、局長や次長に見つからないかとハラハラした。
勿論、書記局で印刷したらいいのだが、仕事が忙しいので5時までに別棟まで行って印刷する時間が無かった。
確か千枚位だったと思う。

何しろもう1人の書記次長が印刷原稿をくれるのが遅かった。
私の上司も隠れ共産党員だったので黙認してたのか、知らなかったのか、それは今と成っては知る由も無い。
(彼は後に向日市の教育長に成った。)
そう言えば何故私が共産党員に成ったのかと言えば、
管轄地域で「日本の平和と民主主義を守る乙訓懇談会」と言う革新懇話会が在り、
事務局に府職の役員として送り込まれ、事務局員だった長岡京市の共産党議員団長達に入党を勧められたからだ。
元々学生時代に民青に入って居たので、アレルギーは無かった。
当時、乙訓地域には著名な学者・文化人が多く住んで居た。
黒田元大阪府知事を講師に招いて「金大中事件」の講義なども行なわれ、「乙訓平民懇」の名は全国に轟いた。
事務的な雑事は私がした。
教組から派遣されたもう1人の事務局員はサボってばかりだった。
それで京都で平民懇の会議が在った時、乙訓の事務局長が出席しなかったので私が代理出席した。
すると其処には以前の職場の元校長(元府立高教組の委員長)が出席して居た。
(その時は京教祖の委員長に成って居た)
他に出席は「明るい民主府政をつくる会」の中野代表世話人、梅田勝共産党衆院議員、共産党京都府委員だった。
大変な会議に来てしまったとびっくりした。
元校長は「元気かい?」と。
彼もびっくりした事だろう。
話を仕事の話に戻すと、教科書を採択する際の教科書の展示室の教科書センターが別室に在り、昼休みは指導主事達と其処で卓球をした。
市町の教育委員会は体育指導員を市民から任命するが、指導員の講習会なども局が主催した。
彼らは町のスポーツ振興を担うのだが、私はスポーツマンでも在ったので現場の状況は想像が付いた。
因みに私は新日本体育連盟の京都バレーボール協議会の常任で、市民ルールのバレーボール大会も主催した。
一度全国大会を京都でやった事もある。
(後年、私は地元のママさんバレーのコーチもした。)
文化財保護では乙訓地方は長岡京跡も在り、掘れば遺構が噴出した。
お陰で訳の分からない図面の稟議書で机の上は直ぐ山と成った。
本庁の保健体育課給食係の学校視察に付いて行って、米飯給食の試食もした。
私の子供時代とは雲泥のご馳走だった。
市の栄養士さんとの見合いの話も在った。
理想が高過ぎて結ばれ無かった。
そこで瞬く間に5年が過ぎて、後ろ髪が引かれる思いで本庁に異動した。


(つづく)



追伸


今日も喫茶店の後、プールに行った。
今日もプールサイドの景色を眺めては幸せを感じたが、冷たい水に入るのが段々億劫に成って来た。
これが4月に成れば温く成って来るので、冷たさを味わうのは今の内なのだが、一旦冷えると中々温まらない。
プールサイドに上がっても全く暑く無い。
それはそれで良いのだが、いや寧ろ寒い位。
子供の頃は唇が青く成ると「上がりなさい」と言われたのだが…。
やはり年寄りの冷や水。
唯、水に浸かって居ると水の匂いが子供の頃の記憶を呼び覚ます。
何とも懐かしい過去の記憶。
そんな事を思いながら今日も過ぎた。



今日の朝食


さて、今夜は鶏の唐揚げ。
いつも美味しい料理をありがとう。

誕生~大学時代(自叙伝)


(昨日のつづき)


私は1949年に京都府瑞穂町で生まれ、父が保険の代理店をして居たので府内の福知山市に住んで居たが、3歳の頃同じく府内の八幡市に転居。
福知山市では隣家が市長さんの家と言う位しか覚えて居ない。
母は近くに音無瀬橋が在ったと。
八幡市では八幡宮の裏から下りて直ぐの所だった。
他には家に風呂が有った事と、近所に渋柿が生って居た事を覚えて居る。
そして、父が京都支社に異動に成ったせいか、幼稚園の途中で左京区の下鴨に引っ越した。
その家で兄は八百屋を営んで居たが、父が部長に成ったせいか、兄も同じ保険会社に入社した。
店に並んで居た果物の缶詰を今でも懐かしく覚えて居る。
10歳以上離れて居た兄には「炎」などの歌声喫茶によく連れて行って貰った。
兄は組合役員だったのか労働歌を好んでよく歌った。
(但し、晩年には自民党の応援をするのだが…)
私は小学校から地元の下鴨小学校、中学校、高校と進み、高校は当時設定されて居た通学区に従い、少し遠い紫野高校に成った。
小学生の時は担任の先生に可愛がられて学級委員などにも成った。
そして高校に入ると中学では入った事も無い運動クラブに入った。
背を高くしたいと思いバレー部に入った。
するとそこは中学からの経験者の猛者ばかりで、
私だけチビで青白くて弱々しい場違いの存在だったが、
精神的に幼かったので何故か辞めると言う選択肢を思い付かず3年間続けてしまった。
3学年先輩時は全国3位と言う名門校だったが、公立のどちらかと言うと進学校で、
部員も少なく、私が1年の時は7、8名だったので、殆ど1人でボール拾いをした。
勿論補欠で、2年に成ると下級生が入って来たのでボール拾いは若干楽に成った。
3年に成るとたった1人の同級生が進学勉強のせいか辞めてしまった。
(後日、彼が剣道部に入って居るのを見て、少し腹立たしかった。
多分彼は選手の自分1人が残ってもシンドイと思ったのだろう)
お陰で私は補欠からいきなりキャプテンと成り、右も左も分からないまま顧問の言うなりだった。
幸いОBは毎日指導に来てくれたので技術は磨かれて行った。
彼は近所でスポーツ店を営んで居て夕方は融通が利いたのだろう。
(彼の弟は私の3年先輩で、当時弟は全国ナンバーワンアタッカーと言われて居た。
高校卒業後は直ぐに実業団の住友軽金属のセッターとしてレギュラーに成った。)
私はキャプテンと言う立場も有り、辛くても頑張ったので、炎天下2度倒れた事が有る。
だが、府内の国体予選では3年が背の低い私1人と言う事も在って直ぐ敗退した。
2年もチビ揃いだった。
1年は背の高いのが揃って居たので、私が辞めたら直ぐシード校に成った。
唯、伝統クラブのキャプテンと言う事も在って、女の子にはモテモテだった。
文化祭のフォークダンスの相手には普段喋った事も無いクラスで一番可愛い子に電話したら即OKだった。
学年全体でも女の子からチヤホヤされたが、残念ながら晩熟の私は練習に明け暮れた。
今と成ってはそれが一番の心残りだ。
そんな訳で一切受験勉強をして無かったので、担任の先生に「浪人させて貰いなさい」と言われた。
父は高3の時、心臓マヒで亡くなった。
よく心筋梗塞の発作を起こして居た。
母が背中を擦って居たのを切なく思い出す。
父が亡くなった後もノホホンと過ごし、2年浪人して同志社に入った。
1年目は関西文理学院と言う予備校に通ったが、勉強の仕方がマズかった。
2年目は従兄の友人の京大の学生に家庭教師して貰ったらすくすく伸びた。
最初は近代経済学系だったが、数字に弱いので2年からはマル系(マルクス経済学)に変更した。
ゼミは中国経済を専攻した。
商業や工業、農業のグループに分かれ、私は農業グループを選んだが、
少人数でしかも余り勉強しないグループだったので、月1で当たる研究発表は殆ど私が行った。
教授は共産党員だったが、当時は余り知らなかった。
(後に、私の結婚式の祝辞で長々と蜷川民主府政などの話をしたのでハッキリ分かった。)
そう言えば、当時から中国の農業経済は変だと言って居た。
(今思えば小学校の図書室にソヴィエトの計画経済を賛美した本が有り、共産主義に一種憧れも有った。
そう言えば、同窓会で同窓生が小学校には共産党の先生が沢山居たと言って居た。
中学校のあの先生もそうだと。)
同じゼミに共産党員が居て、私に近寄って来たので友人に成り、民青に入った。
当時は革マルやブント(共産同)などの過激派と対峙して居たが、ブントから民青に入って来る者も居た。
民青には小学校の幼馴染も居た。
彼は小学生の時は秀才だったのだが、過激派にやられて半身不随では無いが脳にダメージを受けてびっこを引いて居た。
頭も少々おかしく成って居た。
子供の頃は一緒に遊んだのだが…。
大学1年の時は背が低いのでサッカー同好会に入った。
御所の芝生で練習して居たのを見たのがきっかけだった。
パトカーが廻って来ると隠れた。
だが、格闘技であるサッカーはボールを持ってる者を蹴りに来たりするので怪我が多かった。
それで2年からはバレー同好会に入ったのだが背が低いので選手には成れなかった。
授業はゼミ以外は余り出なかったので1年の時に大幅に単位を落とし、後1単位を落とせば留年と言う状態が卒業まで続いた。
後で知ったのだが、他の者は試験前にサボ(出席した者のノート)を買って勉強して居たのだった。
普段は哲学や心理学、仏教の本を図書館で毎日読んで過ごした。
就職先は元々儲ける事が嫌だったので京都府の公務員試験を受けた。
試験場には大学の同学年の者が猫も杓子も受けに来て居たのでびっくりした。
「ブルータスお前もか」と言う感じで、私の友達が2人とも来て居た。
彼らは公務員試験の勉強もせず思い付きで来たのだろう。
同志社からは2人通った。
当時、公務員人気で競争率は30倍と新聞に書かれて居た。
1974年が最高の採用人員だったらしい。


(つづく)



追伸


今日も喫茶店でブログを書いた後はプールに行った。
水面に花粉の様なゴミが一面に浮いて居たので、今日は歩くのを止めて、その場でジャンプした。
と言ってもそんなに激しいジャンプでは無い。
左足は帯状疱疹だから右足だけで軽くその場飛び。
プールサイドにはヤシの木が有り、それを眺めながら「何て幸福なんだろう。」とつくづく思った。
妻の美味しい手料理を毎日食べ、涼しい喫茶店でメロン・スムージーを食べながらブログを書く。
その後は貸し切りのプール。
これはタイならではだろう。
冷え切った体をプールサイドで温める。
その後は家で露天風呂。
腎臓は悪いがもう少し生き延びたい。



今日の朝食


さて、今夜はイカ大根。
いつも美味しい料理をありがとう。