チェンライの日々

タイ(チェンライ)に住んで15年。日々の暮らしを綴ります。

追記(その2)(自叙伝補足)


昨日で自叙伝は終わりにしようと思って居たのだが、もう一つ忘れて居た事が有る。
と、此処まで昨日と同じフレーズに成ってしまった。
と言うのも自叙伝を辞めると何を書いて良いのか分からない。
それでもう一度だけ続ける事にする。



妻と日本で過ごした10年間。
毎週土日には琵琶湖に行ったり温泉に行ったり目一杯遊んだ。
プールや花火や祇園祭りなども行った。
白山や飛騨高山にも行った。
偶には母も一緒に琵琶湖に行った。
花見も行った。
日本は桜の綺麗な国だ。
今から思うと可也方々へ行ったので満足して居る。
北陸の輪島にも3人で行った。
民宿の2階の窓を開けると強い海風が吹き込んだ。
和歌山のわたらせ温泉や岡山の倉敷。
伊勢神宮や二見ヶ浦。
姉が居る大分の長湯温泉。
唯、タイに居ると日本が懐かしい。
まだまだ他にも行きたい所が有る様な。
北海道や沖縄にも行きたかった。
退職したら自由に行けると思って居たが、タイに来てしまった。
タイ国内も旅行して居ない。
何だかタイの生活だけで目一杯だった様に思う。
庭を買い足したり、母の介護をしたり。
中々思う様に行かないものだ。
落ち着いた頃に帯状疱疹を患った。
もう今は足の事を思うとタイ国内でさえ億劫だ。
唯、毎日喫茶店でブログを書けるだけでも幸せに思える。
毎日美味しいものを喰って…。
妻にすがって生きて往く。



今日の朝食


さて、今夜も稲荷寿司。
いつも美味しい料理をありがとう。

追記(自叙伝補足)


昨日で自叙伝は終わりにしようと思って居たのだが、もう一つ忘れて居た事が有る。
それは私の心にいつまでも離れない想い。
新採時に盲学校の学校事務に配属された同期の人が居た。
彼は関大だったか近大だったか忘れたが、とても大人しい控え目な人だった。
同期会で一番気の合う人だった。
私も大人しい性格だったのに、何故私が同期会を作ろうと思ったのかは、教育長の辞令交付式で突然私に代表挨拶せよと言われた。
公務員の本旨を適当に喋ったが、20人ほど居た中には他に京大卒も居たのに、恐らく採用試験の成績が一番良かったのだろう。
学校事務の同期の大卒は5人居た。
私は晩年に成って、若し私が彼が配属された盲学校だったら、一生其処に留まって居ただろうと思う様に成った。
と言うのも、盲学校の事務室の雰囲気はとても良いのではと思われた。
実は其処の事務長は私が採用された高校からの異動で事務長に成られた。
栄転と言う事に成る。
歓送迎会で一緒に成ったので彼の事はよく分かった。
優しくて民主的な人だった。
しかも生徒が障害者だから大人しい生徒ばかりの筈だ。
一般高校はやんちゃな子も居る。
だから窓口業務の雰囲気も異なる筈だ。
そして彼はいつもパチンコに通って居たと。
同期会の時に言って居た。
彼の家の最寄りの西京極駅前にはパチンコ店が有った。
浪費しないのかと聞くと、トントンだが肩が凝ってると。
他に趣味も無かった様だ。
そんな調子で小遣いも大して使わず、着々と貯金して、割と早く滋賀県に家を建てた。
大津市近郊の新団地だった。
通勤が大変だろうと思ったが、彼は一切異動しなかった。
他の者は皆5年で学校から異動したのに。
居心地が良かったのだろう。
そして彼が結婚したと聞いた。
結婚式の相手の写真も見せて貰ったから直接彼に聞いたのかも知れない。
しかし、彼は間も無く癌で亡くなったと聞いた。
これからと言う時だったのに…。
あっけ無かった。
残された奥さんは家だけ残った。
大人しそうな人だった。

何の癌かは聞いて無いが、恐らく肺癌だったのでは。
受動喫煙が最も癌に成り易いと聞く。
私ならマスクをしただろうに。


採用の内示前に「障害児教育に興味は有りますか?」と聞かれた時、ハイと答えて居れば私が盲学校に成っただろう。
私はいつも思う。
若し盲学校だったらずっと異動しないで私も退職まで留まっただろうと。
しかし、以前の私は学校事務は恥ずかしくて結婚も出来ないと思って居た。
でもタイ人と結婚するなら関係無い。
唯、採用時にそんな事は想像出来る筈も無い。
今から思うと他の職場を転々とするより遥かにストレスは少ないのではと思う。
特に府税など。
唯、退職前は電子決裁が採用されて難しく成った。
いや、学校事務なら事務長の決裁さえ有ればと思うのだが…。
校長の決裁が必要だとしても事務的な事は事務長が行う。
実にシンプルな決裁だ。
本庁では有り得ない。
まあ今と成っては夢の話。
若し生まれ変わったらと言う話。
バレー部にも入らないかも知れない。
練習がキツかった。
でも頑丈な体は出来た。
タイムマシンが有るのならバレーを卒業した所から始めたい。
いや、ナンパし損なったからバレー時代でも良かったかも…。


(完のつもり)



今日もとても涼しかったが喫茶店に行ってシャンとした。
メロン・スムージーの中毒に成ってるのかも。
食べ終わると上唇がメチャ冷たい。
最近やけに喉が渇くので糖尿の薬を1錠増やした方が良いのかも。
コーヒー・スムージーをいつも追加してる。
そうそう、冷たい飲み物は腎臓に悪いけど止められ無い。
今度の検査が楽しみだ。
少し早めようかな。


今日の朝食


さて、今夜はヤムウンセン(春雨サラダ)。
いつも美味しい料理をありがとう。

最終回(自叙伝補足)

昨夜は結構雨が降ったので、今日はクーラーを付けずともとても涼しかった。
でも喫茶店に行かないとシャンとしないので出掛けた。
珍しく屋根の駐車場がいっぱいに成って居た。
暫くすると客が出て行ったのでメロンスムージーを一息飲んで車を停め直した。



(昨日のつづき)


さて、自叙伝もいよいよ書く事が無く成って来たので小学校の恩師の事を書いて最後にしようと思う。
その名は長谷川良治先生。
(体育と国語が専門だと言って居た)
1年の音楽の先生が産休に成り、2年から担任して貰った。
担任は1年2年、3年4年と言う様に2年づつ続ける事に成って居た。
その頃、宿題などを忘れたら最初に先生の所に行ってモジモジ報告するのが日課に成って居た。
それが可愛かったのか、とりわけ私は可愛がられて肩車などして廊下を歩いて貰う様に成った。
他の子はエコ贔屓だと妬んで居た様だ。
5年に成ってまた担任に成った。
6年も。
その頃は講堂の掃除を率先してやったので、それが気に入られたのか、また他人より可愛がられた。
悪童には厳しく、軽い体罰などもされた。
その先生の標語は「正直・努力」。
同窓会の時も「正直・努力」の教えに感謝してると皆な先生に報告して居た。
悪童さえ感謝してると言って居た。
実は社会人に成って、或る同級生が自殺した。
子供の頃よく一緒に遊んだ仲だ。
その時、若し同窓生同士で励まし合って居たらと思い、私が同窓会を始めた。
その後、いつも先生を招いて同窓会をする様に成った。
そんな事が有ってか、或る時、先生は私に見合い話を持って来た。
小学校の音楽の教師だった。
その頃、私は赤にかぶれてたので、君が代を歌唱指導してるのかと問うと当然教えてると言うので、これはダメだと思い断った。
君が代の深い意味なぞ知る由も無く。

今から思うと少し後悔して居る。
それから何人も見合いしたが、その人が一番良かったかも知れない。
色んな人が骨を折ってくれた。
そして、私の結婚式に先生を招待した。
遠い神戸市垂水区から来てくれた。
その時の祝辞は今も心に残って居る。
「1人外国に来た彼女をしっかり抱き締めて上げなさい」と。
大学の恩師とは対称的だ。
彼は新島襄の言う良心を滔々と述べて居た。
その後、同窓会の幹事は別の者がやる様に成ったが、先生はいつも出席された。
そして私が渡タイ後、先生は他界された。
私の生涯に大きな影響を残された先生の事はずっと忘れないで居たい。


ところで蛇足だが、私は共産党の国会議員の娘との見合い話も持って来られた事が有る。
行き遅れのブスだと思って断ったが、いや、それ以上に鞄持ちにでも成ったら大変だと思った。
ところがブスだと思って居たのが飛んだ勘違いだったかも知れない。
いや、それにしても今の妻が一番良かった様に思う。
弁証法的に比較は出来ないが…。


(完)



今日の朝食


さて、今夜はマグロ缶詰。
いつも美味しい料理をありがとう。

家族の事(その3)(自叙伝補足)


(昨日のつづき)


嵯峨野に親戚が在った。
母の姉の家。
その家に行くと不思議な木の匂いがした。
他の所には無い匂い。
出来る事ならタイにも植えて嗅ぎたいところだ。
何の木か今では知る由もない。
伯母も母も亡くなった。
二つ違いの従兄とはよく喧嘩した。
でも直ぐ仲直りして一緒に遊んだ。
伯母家は後年、山科に引っ越した。
伯母も謡曲が趣味で、母といつも長電話して居た。
伯母は山科の坂で鍛えられたのか足腰が頑丈で、重い果物を我が家まで持って来た事が有る。
母が若し伯母の様に足腰が頑丈なら母を日本に置いて来たかも知れない。
今の様にラインで電話が出来たならどれ程良かった事だろう。
子供の頃は母の実家の和知町(現京丹波町)によく行った。
夏休みになると毎年行って居たと思う。
父は川で鮎釣り。
私も行ったが雑魚も釣れなかった。
叔父が居て農家だった。
牛が居た。
草の餌を食んで居たのが懐かしい。
炊いた草は独特な匂いがした。
釜風呂も有った。
底板を踏み外すとメチャ熱かった。
外のトイレは
穴から野壺に落ちるのではと怖かった。
夕食時は虫が飛び込んで来た。
子供心には其れが一番怖かった。
犬を散歩に連れて行くと大そう喜んだ。
それで毎年よく覚えて居てくれた。
今は叔父も叔母も居ない。
空き家に成って居る。
子供達も散り散りばらばら。
私の兄姉も同じ。
伯母の息子達も同じ。
これが運命なのだろう。
仕方の無い事だ。
昔の封建大家族なら共同で農作業をしただろうが、商業の時代は無理な話。
タイでも農家で無ければ兄弟別々に暮らして居る。
一番仲が良かった従兄は伯母家の従兄だが、二番目に仲が良かった従兄は二つ下の父方の叔母の息子。
彼は今も独身で神戸市に住んでると思うが、タイに呼んで一緒に暮らしたいものだ。
今はどうして居るのだろう。
京都と少し離れてるので会う機会は少なかったが、会えばよく一緒に遊んだ。
父方の家系は宮大工だったそうだが、それは祖父の代で終わった様だ。
祖母は88で亡くなるまで一緒に暮らした。
子供の頃は芝居小屋によく連れて行って貰った。

母方の曽祖父は庄屋だったが、施しが過ぎて破算したと。
それで祖父の代は平民だったらしい。
祖母は才色兼備だったらしく、祖父は尻の下に敷かれてる様だった。
私は父方の循環器系が弱い遺伝子を受け継いでる様だが、母方の悪い遺伝子は受け継いで無い様に思う。
そう言えば母方の祖父は少々お酒が好きだった。


(つづく)



昨日の雨が少なかったので今日は結構暑く成った。
唯、プールの水は冷たかろうと思い行かなかった。
喫茶店は今日も貸切。
これでよく続くものだ。
店の奥さんは池の掃除。
雨のせいで水が濁ったのだろうか。
暇なので丁度良い。
私は涼しい所で冷たいスムージーを飲んで快適。


今日の朝食


さて、今夜はシシャモ。
いつも美味しい料理をありがとう。

子供時代(自叙伝補足)


(昨日のつづき)


小学生の頃はビー玉やメンコでよく遊んだ。
家の前は未だ舗装して無かったと言う事に成る。
メンコは油に浸した少し大きめのメンコを持って居た子が居た。
中々捲れ無かった。
でも捲ったら自分の物に成るので必死に成った。
紙芝居もよく来た。
5円だったろうか。
1円だったろうか、よく覚えて居ない。
どんな飴だったかもよく覚えて居ない。
勿論、紙芝居の内容も。
他愛のない内容だった様に思う。
駄菓子屋に赤い甘酸っぱいお菓子が有った。
生姜板の様な、薄くて割って食べた。
今タイに有れば其れが一番食べたい。
確かサッカリンの味がした様な…。

ラムネのお菓子をダイソーで売って居た。
昔の味だった。
べっこう飴も食べたい。
近所のおばさんが豚まんを始めたが、しつこく値切った。
漸く負けて貰って家で自慢したら父に叱られた。
それ以降、値切る事に躊躇する様に成った。
父は厳格だった。
汽車で窓に向って唾を吐いたら父の顔に当たった。
父が私を睨んだのでびっくりしたが、父は何も言わなかった。
寝て居る父の顔の上で火箸を回して遊んだら、父は飛び起きて叱った。
わたしも結構おっちょこちょいだった。
だが末っ子の私を父は大そう可愛がった。
後年、姉達は私が羨ましかったと言って居る。
或る夕食時に母は冗談で私に「遠慮しなくていいのよ」と言った。
父はちゃぶ台返しで怒った。
何故そんなに怒るのか私には訳が分からなかった。
母は平謝りだった。
高3の時だった。
そして父は其の年に亡くなった。
後で分かった。
母は後妻だったのだが、私は連れ子では無い。
兄や姉達が行って無い大学に私だけ行かせて貰った事を今も感謝して居る。


(つづく)



昨夜は真夜中に雷雨が有った。
妻は犬を繋ぎ直した。
小腹が空いたのでラーメンを作って貰った。



妻は夜眠れなかったのか正午まで寝て居た。
私も気だるくて中々喫茶店に行けなかった。
久し振りにいつもの喫茶店に行ってメロンスムージーを飲むと、漸く調子が出て来た。
一雨降るととても涼しい。
もっと降ってくれれば良いのだが…。
夏から春に戻った感じ。
あゝ、また明日から暑い日に成るのだ。


今日の朝食


さて、今夜は冷うどん。
いつも美味しい料理をありがとう。