チェンライの日々

タイ(チェンライ)に住んで15年。日々の暮らしを綴ります。

復縁(自叙伝)

(昨日のつづき)


もう、妻の作ったカレーが食べられないのかと思うととても悲しかった。
唯、お手伝いさんが居たので生活は困らなかった。
今思うと妻はそれも見越して居たのではないだろうか。
それから時が経った。
実はその間、妻が家を売りたいと言うので、隣家に風呂を作るなど増改築しようと思った。
それで工事を妻の友達に頼んだので、それから妻は我が家に何度も来る様に成った。
実は最初の頃はメールの返事も無かった。
それで家の工事が長引き、時が経って、「戻ってくれ」と言った。
最初、彼女は隣家に住むと言ったのだが、一緒に住む様に懇願した。
そして再び喧嘩もしたのだが、その後は私の方が折れる様に成った。


今考えると私は大人げ無かった。
私の考えは一方的だった。
タイ人の考え方が受け入れられなかった。
元々夫婦は人格が違う。
しかも国民性も違う。
実は性格も真逆だった。
分かって居た積りが分かって居なかった。


(つづく)



今思うと隣家の工事をした事が妻との復縁に繋がったのだと思う。
無駄な工事だったとは思うが、それが良かったのだ。
随分浪費した。
50万バーツ(≒200万円)
安いものだ。


今日の朝食


さて、今夜は冷うどん。
久し振りの冷うどんは格別。
いつも美味しい料理をありがとう。

タイ移住後(自叙伝)


(昨日のつづき)


日本人会の役員会を隣家で行う様に成った。
実は来客様に隣りに同じ建て売りの物件を買ったのだが、一向に日本からの来客が無い。
遊ばせて置くのも勿体無いので日本人会の事務局にした。
事務局と言っても備品を置く位で、立派な看板は掲げたものの来客が無い。
それで役員会の場所にした。
レジメなどを作るのも便利だった。
ところで母が認知症が進まない様に仔犬を連れて団地内を散歩させた。
牛のうんちが落ちて居て仔犬が嗅ぐので紐を引っ張る様に母に言った。
すると母は頑張って引っ張ったのだが、その時、腰を痛めた。
それから余り歩かなく成り認知症が進んだ。
そして役員会の前の日に病院に連れて行かざるを得なく成り、病院から妻に電話した。
翌日の役員会の事が気に成って、妻に母のベッド横のレジメを持って来る様に言った。
すると妻は「見当たらない」と。
そこで喧嘩に成った。
いや、私が言い過ぎた。
電話はそれで終わったが、何か胸騒ぎがして急いで家に帰った。
妻の姿は無かった。
暫くしてメールが…。
「生きてる内にあなたと会うことは有りません。」


(つづく)



今思うと今でも続いて居るのが不思議な位。
私は心から妻を愛し、妻も私を愛してくれてるものと思って居るのだが…。
今から思うと若気の至りとしか。
今はもう年老いてぼろぼろの身だから、若気の至りどころか気力も無い。
妻におんぶに抱っこ。
これから死を迎えるまで傍に居て欲しい。


今日の朝食



さて、今夜はホタテの挟み焼き。
絶妙の塩加減。
茄子を使う発想も凄い。
いつも美味しい料理をありがとう。


タイ移住を決断(自叙伝)


(昨日のつづき)


さあ、これからは自由にタイに行けるぞとはやる気持ちを抑えたが6月末には飛び立った。
今から思うと母を残してと言う選択肢も有ったのではと思う。
長年共に暮らして来たから離れる事は考えられ無かった。
一緒に移住しようと言うと母は激しく抵抗した。
しかし母を1人置いて行く事には不安が有った。
以前道端で転んだ事が有ったし、家の階段の登り降りにも不安が有った。
私がタイに移住しないと言う選択も有るのかも知れないが、妻の日常の食事が不憫だった。
母を1人にすると転んでも助ける者が居ない。
階段から落ちたら電話も出来ないかも知れない。
勿論、一緒に暮らして居てもそう言う事は有るだろう。
しかし私達が日本に居るのと居ないのとでは訳が違う。
90の母を置いて行けなかった。
母は都会人で足腰は弱い。
それで強引にタイに連れて行った。
犬も。
犬の飛行機代は16万もした。
人間より高い。
タイに着いて見ると妻の実家は田舎なので、都会で暮らしたく成った。
早速、街の中で家を探した。
家を探すのも実家のトラックは母の乗り降りが難しいので、乗用車を買おうと思った。
すると何処も納車に日数が掛かると言う。
ホンダなどは1ヵ月と言われた。
マツダに行くと「展示車は直ぐ乗って帰れる」と言われた。
デザインも気に入ったので手続きを始めたら、引き渡しは明日に成ると言われた。
それ位は待てるのでマツダに決めた。
家をあっちこっち探したが、中々適当なのが無い。
一度決めた物件が有ったが、義母が三角の土地は縁起が悪いと言うのでキャンセル。
GOOGLE MAPを見ると、BIG-Cスーパーの近くに小さい団地が有ったので行って見た。
すると「売り家」の看板が。
大家に電話すると直ぐ来てくれた。
団地の端にポツンと建って居て、娘の為に建てたが娘はバンコクに行った切りだと。
裏はだだっ広い草地が広がって居て少々不安だったが、其処に決めた。
何故か隣りだけ芝生で、母が「安いのなら買ったら」と言うので一緒に買った。
芝地は140平方メートル70万バーツ(≒210万円)。
家が建って居た敷地も同じ広さで70万バーツ。
家は80万バーツ(≒240万円)。
最初は日本と行ったり来たりして居たが、タイの方が断然良く成って来た。
春と秋は日本へ、夏と冬はタイで。
ところが物価はタイが安いし、夏も雨季で暑くない。
日本は春も秋も短く、直ぐ暑く成ったり寒く成ったり。
勿論タイの冬は心地良い。
タイで過ごす日の方がどんどん長く成り、何度目かの帰国時に日本の家を売却。
長く空けると家も傷むからだ。
そして、タイの裏の土地も買い足した。
牛が草を食みに家の裏まで来て居た。
全部で6軒分に成った。
田舎に住んで居た妻の母と姉と町の学校に通って居た姪も一緒に住んだ。
3LDKで6人家族は狭かった。
狭いので裏に増築した。
露天風呂も作った。
家から歩いて5分の所にBIG-Cスーパーも在り便利な場所だ。
唯、日本の野菜などは余り売って無いと思って居たので、朝食はパンだった。
夕食もカレーとか焼飯とかに限られて居た。
唯、妻は日本に10年居たので日本料理は上手かった。
最初の頃は山椒の実も市場で売ってる事を知らなかったので、帰国時に煮炊きして持って来た。
カレー粉も日本から持って来た。
今では麩以外は大概手に入る。
そう言えば茗荷や梅肉は無い。
梅干しは有るのだが…。
今は30種類のメニュー表を作って日替わりで食べて居る。
朝食は目玉焼きと味噌汁と漬物(大根・ナスビ・胡瓜・白菜・人参・ラッキョウ)と蒟蒻。
渡タイ後1年位で日本人会に入ったが、それから1年後に役員に成ってくれと言われた。
お世話の人も大変だと思い協力しようと思った。
それまでに毎月日本人を呼んで庭でガーデンパーティーを開いて居た。
多分それが目に止まったのだろう。
役員に成って見ると大変だった。
今までの役員のお手伝いをする積りが総入れ替えだった。
そして新参者ばかりの中でも一番入会が早かった私が会長に成った。
他にする事も無かったので全精力を傾けた。
私の生き甲斐に成った。
そんな中で妻と衝突した。


(つづく)



今日は珍しくプールに若者達が来て居た。
太った女の子1人と男の子5人。
2人1組で騎馬戦をやって居て楽しそうだった。
私にはあんな時は無かった。
1人70バーツ(≒280円)するから貧しくは無い。
学生か勤め始め位。
学生が飲むコーヒーは大体35バーツ位だ。
まあ、コーヒーを飲む位ならメシを喰うだろう。
可愛い子とデートする以外は余り喫茶店で見ない。



今日の朝食


さて、今夜はおでん。
いつも美味しい料理をありがとう。

府税事務所から保健所へ(自叙伝)

(昨日のつづき)


次の勤務場所は田舎の保健所だった。
狭くて急峻な峠を二つ越えて行くので車を買い換えた。
お陰で首が痛く成ったが、異動すると直ぐ治った。
やっぱり通勤のせいだと分かった。
他の峠を峠とも思わなく成った。
今はそれぞれ京都市と南丹市に統合されてる京北町と美山町が管轄。

40分掛って着くと、其処は別天地だった。
昼休みは山の中に入って自然と触れ合えた。
唯、残業は憂鬱だった。
残業後の帰宅が辛かった。
差し押さえ担当から障害者担当に成った。
身体障害者、知的障害者、精神障害者の担当だ。
町からの障害者手帳の進達や断酒会の開催、共同作業所の視察。
此処でも進達先の本庁の担当者や町の担当者はベテランで、手帳の申請に不備が有ると本庁から叱られた。
珍しい障害者補助金の申請が出て来た時はびくびくした。
当時それほど一般的では無かった多動児補助の申請だった。
複雑怪奇なマニュアルは有ったが、本当に当て嵌まってるか半信半疑だった。
町の担当者も初めてのケースで不安だったろう。
それから町の障害者スポーツ大会の視察。
妻を呼んで一緒に弁当を食べた。
その他には管轄内での献血活動や被爆者援護も担当した。
広島からの移住者が1人居た。
献血活動はのぼりを立てて、選挙の街頭宣伝の雰囲気も在った。
勿論、本庁の薬務課が献血カーでやって来た。
ところで上司の保健課長は元保健婦長で、町の講演会などでは立て板に水の雄弁な人だった。
町民からは「婦長さん、婦長さん」と慕われて居た。
次長からは行政能力が無いと揶揄されて居た。
保健師達は8020運動を展開して居た。
(80歳時に自分の歯を20本残す事)
組合では異動後直ぐ分会長をやった。
折からの統廃合の嵐で1年後に大きな保健所の出張所に成り、2年後に統合された。
1年後は統合との噂が有ったが出張所として残ったので、「周山保健所に倣え!」と言う運動に成った。
今は建物だけ残って居る。
分会旗は今も我が家に有る。
統合時の事務引き継ぎは大変だった。
3月31日までの勤務内容を引き継ぎ書に書いて段ボール詰めしなければならない。
誰か来客が有ったらその事も書き留めて置かねば成らない。
町や本庁は遠慮して電話して来なかった。
4月1日は次の職場に行くのだ。
行政は継続が大事だから一言一句も引き継がねば成らない。
残業はしたものの、完全なものと成ったかどうかの記憶は無い。
通常の異動なら前任者に電話で聞けば良いが、引継書等全ての文書は暫く段ボール詰めの侭だ。


次の勤務地は家の近所の資料館に成った。
前の保健所と比べたら残業は全く怖くない。
土日は交代制で庶務課は1人に成るので、弁当はいつも妻が自転車で届けてくれた。
いつも保安の人に冷やかされた。
最初は経理係だったが、「執行体制の為なら異動しても良い」と書いたら庶務係に異動に成った。
職場の書記長だったので、まさか中枢に異動するとは思って無かった。
ビル管理を委託してる館内技師と連絡を取ったり、職員の健康管理記録や健診なども担当。
年に一度レントゲン車が来るので、館内に様々な臨時健診室を設定。
その他には館で保管してる美術品を京都文化博物館で展示する際の受け渡しや紺綬褒章の進達。
被受章者を文博の学芸員が文部省に内諾を得て申請して来るが、被受章者の犯罪履歴を府警に照会。
重文の資料なども書庫に有るので職員以外は入れないが、普段職員も入らない保管庫には美術品が。
迷路の様で保安員の案内が無いと迷子に。
消防署の点検の際はマズい物が廊下に有る時は保安と一緒に隠す。
そう言えば退職後タイに来てくれる小学校の同窓生がその消防署の副司令だった。
年に一度の煙探知機や熱探知機、スプリンクラーの業者点検も保安に案内して貰う。
その他諸々併せて36種の担当をして居た。
どこまで進んだか覚えて居れないので、都度パソコンに進捗状況を記入した。
それをそっくり其のまま後任者に渡した。
仕事の様子がよく分かっただろう。
中身は殆ど覚えて無いが担当数だけは覚えて居る。
そう言えば書庫の古い給水管が破れて職員総出でバケツリレーした事が有る。
そもそも何故剝き出しの給水管が書庫内を通って居たのかも不思議。
一旦落ち着いたところで、普段大人しい館長が気の強い次長と口論して居た。
逆に下水の排水管が詰まる事はよく有った。
保安で手に負えない時は業者を呼んだ。
書記長をして居たので当局交渉もしたが、当局からは「貴方も苦しい立場だネ」と皮肉を言われた。
自分が回答の一部を担う部分も在ったのだ。
(分かって居て要求書を書いた。)
「赤旗」を次長に配ったりして居たので、まさか庶務係に異動するとは思って無かった。
選挙の時は資料館近くの駅頭で朝ビラをして居て上司や同僚に渡したらびっくりされた。
或る上司との折り合いが悪く、また酷いプログラムの電子決裁が導入されたりで、58で退職した。
退職時の挨拶はコップクンマークカップ、チョークディーカップと言う言葉で締めた。
新任の館長は「資料館の職員は多士済々だ」と驚いて居た。(現館長も定年退職)
退職後、資料館をガラス張りのデザインに建て替えると言うニュースを見たが、飛んでも無い事だ。
火事に弱いし、防犯上も問題が有る。
本庁の考える事は非常識だ。
唯、その案は撤回された様だ。
昔の資料館から少し離れた場所に移転されたが、タイに居ても何か寂しさを感じる。
まるで母校が廃校に成った様な…。
資料館の建物は昭和38年建築で老朽化して居たが、出来れば同じ場所に建て直して欲しかった。
唯、二度も書籍を移転するのは大変だ。


(つづく)



今日も喫茶店の後プールに行ったが、2時で凄く暑い。
それで水に入ると心臓マヒに成りそうな位冷たいのを頑張って入った。
暫くすると慣れて来る。
1時間ほどして上がると体が冷え切って居る。
休憩室を覗くとコンセントが有るので此処でパソコンを使えそうだ。
窓は閉まって無いので暑い筈だが体が冷え切ってるので全然暑く無い。
此処でもパソコンを打つと1日中ブログを書く事に成る。
プールでも体力を消耗する筈だし、頭脳労働でもエネルギーは消耗する筈だ。
それで食欲が増す事に成る。
良い様な悪い様な…。
まあ、ボケ防止には繋がるから良しとするか。



今日の朝食


さて、今夜は麻婆豆腐丼。
いつも美味しい料理をありがとう。

教育委員会から知事部局へ(自叙伝)

(昨日のつづき)


異動希望を出して置いたら次の異動先は植物園だった。
何故教育委員会から知事部局に成ったのかは分からない。
教育委員会と知事部局との人事交流は少ないのだ。
本庁に異動後、組合役員はしなかったが、教育委員会から植物園に変わると分会長兼支部書記次長に。
植物園の職場は組合については素人ばかりで、私が分会長をやるしかなかった。
それと支部の書記長が当該支部は役員の成り手が無く、会計担当の書記次長をしてくれとの事だった。
植物園では知事選の時は植物園に割り当てられた全戸ビラ配布700戸分を週2回1人で配った。
700戸は1日では撒けないので、結局毎日全戸配布をして居た。
サボると次のビラが来るので大変だった。
当時のビラは分厚く、100枚持てばメチャ重かった。
家の近所だったので100枚配れば家に取りに帰った。
実は植物園も家から近かった。
選挙の時は園の近くの選挙事務所に早くから泊り込んだ。
夕食だけ家に帰った。
異動1年後、温室や植物園会館の建て替えなど園内の大改築の時期に当たった。
職場改善要求なども先頭に立って交渉した。
経理係の仕事も係長が長期病休で予算要求書などは私が作成した。
大幅にサバを読んで本庁から雷が落ちた事も有る。
電話で怒鳴られた。
今ならパワハラで訴えてやるのだが…。
園は清掃を管理委託して居たのだが、毎年同じ業者が落札するのでおかしいと思い、予定価格を或る業者にバラした。
するとその業者が酒場で同業者に自慢したらしくバレてしまったので、後日上司から詰問されたがしらばっくれた。
今から考えても上司がいつもの業者に教えて談合して居たとしか考えられない。
それと植物園会館に入った食堂業者の料理が高いと言ったら自民党の伊吹文明が文句を言って来た。
また、本庁が1億円の立派な屋外トイレを建てると言うので反対した。
屋外トイレは必要だが1億円は高すぎる。
一方では通常の肥料代などを年々削り、自民党の京都府政は府民と職員の敵だと思った。
5年が経って異動しろと言われた。
組合役員をやって居るので不当配転だと言って、辞令を受け取らなかった。
だが、園長が泣いて頼むので可愛そうに成り、辞令は受け取らずに異動した。
目の前で破ってやろうかとも思ったが大人げ無いので辞めて置いた。
実は植物園は交代勤務で土日出勤の翌月火は休みに成るので、翌水木金勤務後また休み。
従って其の週の水木金を休めば1週間休みと成るのでタイに旅行出来た。
唯、予め水木金の年休は認められ無いので、風邪だと言って休んだら叱られた。
何しろ真っ黒に日焼けしてたからバレバレだったのだ。
それで結局タイ行きは退職まで通算100回を超える。
已む無く異動した先が府税だった。
今まで税の事など全く知らなかったのにいきなり滞納者相手の仕事。
税の事など知らないのに滞納金を払えと電話した。
すると相手も弱みが有るので、税の文句は言わずに、兎に角「待ってくれ」だった。
それも殆どが嘘で、いや、その時は本心だったかも知れないが、結局払わない。
何しろ今まで何度も催告状を送られても払わない人達だからほぼ確信犯。
そう言う人達ばかり相手にする係だった。
中には息子の不始末は私の責任と言って払うお婆さんも居た。
そう言う人は大概貧乏だから毎月何千円の分納だった。
中には「差し押さえ予告」を送ると、怒って事務所に怒鳴り込んで来る人も居た。
連絡が付かないか、或いは無しのつぶての場合は家に行ってメーターを見た。
冷蔵庫が有ると僅かにメーターが回って居る。
或る時は刺青の人が出て来る時も在った。
本当のヤクザは手を上げない。
住民票を残したまま移転してる場合も有った。
子供が居たら住民票を移転しないと転校出来ない。
徴税吏員のカードを見せれば区役所のカウンターに入って行って、住民票の閲覧が出来た。
「徴税吏員」と赤字で太く書かれたカードだ。
府税事務所長の印は有ったが写真の添付は無かった。
私の顔は徴税吏員そのものだったんだろうか。
法務局でも銀行でも府税事務所長印押印のA4の調書1枚が有れば何でも閲覧出来る。
8年間の納税担当の間に一度課税課の特別地方消費税担当に成った事が有る。
昔の料理飲食税が変更されたもので、5千円を超える食事等をした場合に一割加算される。
東府税事務所の時だったので担当は祇園のスナックだった。
客から預かった税を店が後で自主納付するもので、課税課としてはその申告を促すのが仕事。
当時はバブルが弾けて赤字経営が多く、中々申告して来なかった。
電話で督促もするのだが、私の電話を聞いて居た先輩は私の話は表面的で中身が無いと言われた。
先輩の電話は成る程、申告しようと言う気持ちにさせるものだった。
だが電話では中々申告が進まないので月一で夜回りが有った。
皆で夕食後一斉に回るのだ。
2人一組でそれぞれの担当を回った。
1人400件抱えて居て、一夜で自分の担当分は10件ほどしか回れ無い。
行くと店はガラガラで、「税金を払う金が無いので飲んで行って下さい」と言われた。
勿論、冗談だったが半分本音でも在った。
再び納税課に戻ったが、晩年は経済状況も厳しく、「差し押さえ予告」を送っても無反応だった。
それでほぼ毎日差し押さえ状態に成った。
それが嫌に成ってまた異動希望を出した。
嘘ばかり吐かれて居ると、顔を見ただけで人が分かる様に成った。
人間の負の部分を十分見た気がした。


(つづく)



追伸


今朝は7時に目が開いて外灯を消して回り、また寝床に入ってYOUTUBEを見た。
そしてまた寝入ってしまい、妻の呼ぶ声が。
「ご飯出来た!」
見ると9時前に成って居た。
もう少し寝かせてくれたら良いのに。
いつも私がご飯と言ってから用意してくれたら良いのに…。
しかし考えて見れば有難い事だ。
独身ならこうも行かないと思い、ふらふらと食卓へ。
チェンライには独身男性もまま居る。
彼らは自炊するか食べに行くかしてるのだろう。
独身は気楽でいいが、私は尻に敷かれてもかかあ天下で良い。


今日の朝食


さて、今夜は和定食。
いつも美味しい料理をありがとう。