チェンライの日々

タイ(チェンライ)に住んで10年が経ちました。日々の暮らしを綴ります。

妻のこと

タイで挙式の後、配偶者ビザが下りて間も無く日本に初来日し、
日本でも式を挙げた。
日本語学校に通ったりして、間も無くカタコトの日本語も覚え、
料理もメキメキ上達した。
当時、私は組合活動で忙しく、また、仕事も滞納税の徴収で、
精神的な疲れもあり、彼女と過ごす休日が待ち遠しかった。
休日、彼女と遊ぶのが精一杯で、彼女が痩せて来たのは、
慣れない日本文化と食事のせいぐらいだろうと思って居た。
そんな中、久し振りに会った姉が、彼女の痩せた顔に異常を感じた。
私は毎日のことなので、全く気付かなかった。
一度病院へ行けと言うので、気になって行った。
1ヵ月後検査結果が出た。
進んだ子宮がんだった。
生存率何パーセントというものだった。
言葉の問題もあり、母国での治療を勧められた。
それなら直ぐに告知せざるを得ない。
家に帰って彼女がすすり泣く姿を、今も忘れることが出来無い。
半年後、全切除と放射線治療のお陰で、一命は取り留めた。
子供が産めない体になった。
私は彼女さえ生きていてくれたら、他に何も望まなかった。
それからは3ヵ月毎の経過観察。
5年が経った頃、背中が痛いと言い出した。
腰を使って掃除をした翌日だったので、単なる腰痛だと思っていた。
1ヵ月経っても治らないので、検査を受けると大動脈瘤リンパ節転移だった。
今度は日本の医者も切除は難しいと言った。
残る放射線治療も放射線総量の問題があると言う。
タイの病院からカルテを取り寄せて、日本の大学病院で治療することを決断した。
今度もすぐに告知せざるを得ない。
今度は彼女は声を上げて泣いた。
あの時の声を今も忘れることが出来無い。
カルテの取り寄せ依頼が一向に進まず、1ヵ月以上過ぎた。
病気がどんどん進行していくのが、居ても経っても居られなかった。
茫然自失だった。
やっとカルテが届き、2度目の放射線治療が始まった。
部位も違うので放射線治療が可能だとのことだった。
さすが大学病院だけあって、治療は信頼出来た。
治療は順調に進み、2ヵ月ほどでがんを焼き切った。
後は黒いススの様なものが残って居ると言う。
腫瘍マーカーも下がり、また、経過観察となった。
タイでの旧式な放射線治療により、腹部にかなりのダメージが残っている。
胃腸が極端に弱くなった。
腹の痛みを訴え、救急病院に行くこともしばしばだ。
夜間の大学病院は若い当直で、診察も信頼出来ず、痛み止めの注射も下手だ。
腕に刺せないので、手の甲の血管に刺す。
胃の痛み以上に痛い顔をする。
こんな時も彼女がやるせなく、いつもすまないと思って居る。
何もかも私の気が付くのが遅れたせいだ。
子供が無くても彼女は明るい。
持ち前の明るい性格が私にも救いだ。
今迄はいつも不安を抱えて居た。
腸閉塞や再発を。
でも、再発後5年が過ぎて、経過観察も半年毎になった。
腫瘍マーカーも最初の再発までは高かったが、再術後は低い数字で経過して居る。
15年近く経った今は、定期観察も不要になって居る。
再発はもう無いと思って居る。


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